人物

アウンサン

Aung San
AD1915年2月13日 – AD1947年7月19日(享年32)
ビルマ重要度 4

概要

日本軍と組み、次いで日本と戦い、イギリスから独立を勝ち取った。その独立の半年前に暗殺される。娘がアウンサンスーチー。

関わったできごと(1)

ビルマの独立AD1948年1月4日 · その半年前に暗殺された

本文

1915年2月13日、ビルマ中部のナッマウという町に生まれた。父は弁護士だった。ビルマは当時、イギリス領インドの一つの州として扱われていた。少年の頃から無口で、身なりにかまわない子だったと伝えられる。

アウンサンの軍服姿の肖像
アウンサンの軍服姿の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ラングーン大学に進み、学生運動の中で頭角を現した。1936年、学生自治会の機関誌に載った記事をめぐって仲間が退学処分を受けると、学生たちは大規模なストライキを起こした。アウンサンはその中心の一人で、のちに首相になるウー・ヌとともに運動を率いた。大学を出ると、「われらビルマ人協会」(タキン党)に入り、書記長になった。タキンとは「主人」を意味し、イギリス人が自分たちをそう呼ばせていた言葉を、ビルマ人自身が名乗ったものである。

第二次世界大戦が始まると、独立の好機と見た。1940年、イギリス当局に追われ、中国の共産党と連絡を取ろうと船で中国のアモイへ渡った。そこで日本の陸軍の工作員に接触され、東京へ連れて行かれる。日本は、中国の国民政府を支える物資の輸送路(援蒋ルート)を断つため、ビルマの独立運動を利用しようとしていた。担当したのは鈴木敬司大佐の「南機関」である。

オーウェイ誌の編集委員会。前列の左から2番目に座っているのが編集長のアウンサン
オーウェイ誌の編集委員会。前列の左から2番目に座っているのが編集長のアウンサンWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

アウンサンはひそかにビルマへ戻って同志を集めた。のちに「三十人の志士」と呼ばれる若者たちで、日本占領下の海南島で軍事訓練を受けた。その一人に、のちに独裁者となるネ・ウィンもいた。1941年12月、バンコクでビルマ独立義勇軍が結成され、翌年、日本軍とともにビルマへ攻め込んでイギリス軍を追い出した。

だが日本に、ビルマを本当に独立させる気は無かった。1943年8月、日本はバー・モウを首班とするビルマ国の「独立」を認め、アウンサンは国防相になった。名目上の独立で、実権は日本軍が握っていた。アウンサンは日本から勲章を受けながら、裏で抗日の準備を進めた。共産党や社会主義者とともに反ファシスト組織を作り、イギリス側とも連絡を取った。

アウンサンとキンチーの結婚式。
アウンサンとキンチーの結婚式。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1945年3月27日、アウンサンの率いるビルマ国軍は日本軍に反旗を翻した。この日はいまもミャンマーの国軍記念日になっている。日本軍と組み、日本軍と戦ったことを、無節操と見る人もいる。本人にとっては、どちらも独立のための手段だった。

戦後、イギリスはふたたびビルマを治めようとした。アウンサンは反ファシスト人民自由連盟(パサパラ)を率いて交渉に臨み、1947年1月、ロンドンでイギリスのアトリー首相と協定を結び、1年以内の独立の約束を取り付けた。

裁判中のウー・ソオ。
裁判中のウー・ソオ。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

残る問題は、山地に住む少数民族だった。ビルマ人が多い平野と違い、シャン、カチン、チンなどの人々は、イギリスの下で別の扱いを受けてきた。1947年2月、シャン州のパンロンで会議が開かれ、少数民族の代表と、連邦の中で自治を認めることに合意した。アウンサンは、ビルマ人が1チャット持つなら、あなた方も1チャット持つ、と語ったと伝えられる。ただ、カレン人などはこの会議に加わっていなかった。4月の制憲議会選挙では、パサパラが圧勝した。

1947年7月19日の朝、ラングーンの政庁で閣議が開かれていた。軍服姿の男たちが部屋に押し入り、銃を乱射した。アウンサンと閣僚ら計9人が死んだ。32歳だった。首謀者として、かつての首相ウー・ソーが逮捕され、裁判を経て処刑された。だが、武器の出どころにイギリス人の将校が関わっていたことが分かっており、ほかに背後で糸を引いた者がいたのではないかという疑いは、いまも完全には晴れていない。

処刑されるウー・ソオ。
処刑されるウー・ソオ。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

半年後の1948年1月4日、ビルマは独立した(ビルマの独立)。首相にはウー・ヌが就いた。アウンサンが命を落とした7月19日は「殉難者の日」として記念されている。

パンロンで交わした約束は、守られなかった。独立直後からカレン人などが武器を取り、1962年にはネ・ウィンがクーデターで権力を握って、連邦の自治は踏みにじられた。少数民族の武装勢力と国軍の戦いは、いまも終わっていない。

ビルマ防衛軍の軍服姿のアウンサンと結婚後のドー・キン・チー(1942年)
ビルマ防衛軍の軍服姿のアウンサンと結婚後のドー・キン・チー(1942年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

アウンサンには、死の2年前に生まれた娘がいた。アウンサンスーチーである。父の記憶をほとんど持たない娘は、1988年の民主化運動のなかで政治の場に立ち(8888民主化運動)、軍の支配と向き合うことになる。2021年に軍がふたたび権力を奪ったとき(ミャンマーのクーデター)、国軍も民主派も、どちらもアウンサンを自分たちの側の英雄として掲げていた。

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