トマス・ジェファソン
概要
独立宣言を書き、第3代大統領としてルイジアナを買った。「すべての人は平等に造られている」と書いた人が、600人の奴隷を持っていた。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
アメリカ独立宣言AD1776年7月4日 · 起草本文
1743年4月13日、イギリス領ヴァージニアの西の端、シャドウェルの農園に生まれた。父は測量士で、土地と奴隷を持つ農園主だった。14歳で父を亡くし、広い土地と数十人の奴隷を相続した。ウィリアム・アンド・メアリー大学で学び、法律家になった。

本を読み、ヴァイオリンを弾き、建築を独学した。20代のうちに、父から継いだ土地の丘の上に自分で設計した屋敷を建て始めた。モンティチェロと名付けたこの家は、生涯をかけて建て直され続ける。1772年に結婚した妻マーサとは、10年後に死別した。再婚はしなかった。
1774年、イギリス議会には植民地を治める権利が無いと論じた小冊子を書き、文章の力で知られるようになった。1776年6月、33歳で大陸会議の起草委員の一人に選ばれ、独立宣言の草案を書いた。すべての人は平等に造られ、生命、自由、幸福の追求という奪いがたい権利を与えられている。政府はその権利を守るために作られ、それを壊す政府を改め、あるいは廃する権利が人々にある。のちに世界中で引かれるこの文章は、ほぼ彼の筆による。
大陸会議は草案の4分の1ほどを削った。その中には、イギリス国王がアフリカの人々を奴隷として売り買いさせていると非難する長い一節があった。南部の植民地と、奴隷貿易で利を得ていた北部の商人たちが反対したためとされる。7月4日、修正された宣言が採択された(アメリカ独立宣言)。

独立戦争のさなか、ヴァージニアの知事を務めた。州では、国が特定の教会を支えることをやめ、信仰を法で強いないとする法案を書いた。この「信教の自由に関する法」は1786年に成立した。
1785年からは公使としてパリに住み、フランス革命の始まりを目の当たりにした。友人ラファイエットが人権宣言の草案を練る際にも、相談に乗っている。帰国するとジョージ・ワシントン政権の初代国務長官になり、強い中央政府と商工業を重んじる財務長官ハミルトンと激しく対立した。農民の国としての共和国を夢見たジェファソンの側から、のちの民主党につながる政党が生まれた。

副大統領を経て、1801年に第3代大統領になった。在任中の1803年、フランスからミシシッピ川の西の広大な土地を1500万ドルで買い取った(ルイジアナ買収)。国の広さは一気に倍になった。憲法には領土を買う権限が書かれていない、と本人も分かっていて、憲法を改めることまで考えたが、機会を逃さないことを優先した。その直後、ルイスとクラークに西の太平洋岸までの探検を命じている。
「すべての人は平等に造られている」と書いた人は、生涯に600人を超える人々を奴隷として所有した。奴隷制を悪だと書き、いずれ無くすべきだと言い続けたが、自分の農園の人々を解放したのは、死に際の遺言を含めて数人にとどまる。著書『ヴァージニア覚え書』では、黒人は生まれつき劣っているのではないかという疑いも書いている。在任中の1807年に外国からの奴隷の輸入を禁じる法律に署名したが、国内の奴隷制には手を付けなかった。

妻マーサの異母妹とみられる奴隷の女性、サリー・ヘミングスとの間に、何人もの子をもうけていたという噂は、在任中から流れていた。1998年の遺伝子の鑑定で、ヘミングスの子孫とジェファソン家の男系の血のつながりが示され、いまでは彼が父親だったとする見方が広く受け入れられている。ヘミングスの子どもたちは、のちに自由の身になった。
大統領を退いた後は、モンティチェロに戻った。1814年、イギリス軍がワシントンを焼いて議会図書館が失われると、自分の蔵書6000冊あまりを議会に売り、図書館の再建の土台になった。晩年の最大の仕事は、ヴァージニア大学の創設だった。建物を設計し、教える科目を決め、教授を選んだ。

1826年7月4日、独立宣言の採択から50年目のその日に、モンティチェロで亡くなった。83歳だった。同じ日の数時間後、かつての盟友で政敵でもあったジョン・アダムズも死んだ。アダムズは最期に「ジェファソンはまだ生きている」と言ったと伝えられるが、実際にはそのとき、ジェファソンはもう亡くなっていた。
自分で書いた墓碑銘には、独立宣言の起草者、信教の自由に関する法の起草者、ヴァージニア大学の父、の三つだけを刻ませ、大統領だったことは書かなかった。死後、残った多額の借金のために、モンティチェロの奴隷たちは競売にかけられ、家族はばらばらになった。彼が書いた理念と、彼が生きた現実の間の隔たりは、そのままアメリカという国が抱え続けた矛盾でもある。