できごと

ソウェト蜂起

Soweto uprising
AD1976年6月16日
重要度 5
ソウェト蜂起に関わる図版:Mbuyisa Makhubu carries Hector Pieterson at Soweto Uprising
Mbuyisa Makhubu carries Hector Pieterson at Soweto Uprising Wikimedia Commons Sam Nzima · Public domain

概要

授業をアフリカーンス語で受けさせる方針に、高校生が抗議して行進した。警官が発砲し、倒れた少年の写真が世界に流れる。アパルトヘイトへの国際的な圧力が、ここから強まった。

場所

ヨハネスブルグ
-26.20°N 28.05°E · 南アフリカ

本文

1976年6月16日の朝、南アフリカのヨハネスブルク南西に広がる黒人居住区ソウェトで、制服姿の中高生たちが学校から通りへ出て行進を始めた。手にしたプラカードには、アフリカーンス語での授業を拒むと書かれていた。数は1万を超え、2万に達したとも言われる。その日の昼までに、警官隊の銃弾で子どもたちが倒れ、倒れた少年を抱えて走る若者の写真が、翌日には世界中の新聞に載った。アパルトヘイト(人種隔離)の国がどのような国なのかを、その一枚が世界に見せた。

南アフリカでは、1948年に政権を取った国民党が、人種によって住む場所、働く場所、結婚の相手、使える公共の施設までを法律で分けるアパルトヘイトの体制を作り上げた。人口の多数を占める黒人には国政の選挙権がなく、都市で働く人々は「タウンシップ」と呼ばれる指定された居住区に住まわされた。ソウェトという名も、「南西の居住区」を意味する英語の頭文字から来ている。

ソウェトの衛星写真
ソウェトの衛星写真Wikimedia Commons NASA · Public domain

教育も分けられていた。1953年のバントゥー教育法のもとで、黒人の子どもには、白人に仕える労働者として必要な程度の教育しか与えないという方針がとられた。この法を推し進めた政治家フェルフールトは、黒人に高等な数学を教えて何の役に立つのか、という趣旨の発言をしたことで知られる。黒人の学校は教室も教師も教科書も足りず、一人あたりの教育費は白人の子どもの何分の一にすぎなかった。

南アフリカの白人には、オランダ系の移民の子孫で、オランダ語から生まれたアフリカーンス語を話すアフリカーナーと、英語を話すイギリス系がいた。国民党はアフリカーナーの党であり、1899年からのボーア戦争でイギリスに敗れた記憶を持つ彼らにとって、アフリカーンス語は民族の誇りだった。1974年、政府は黒人の中等学校で、数学や社会科などをアフリカーンス語で教え、残りを英語で教えるよう定めた。

ヘクター・ピーターソン記念館
ヘクター・ピーターソン記念館Wikimedia Commons Babak Fakhamzadeh from Chiang Mai, Thailand · CC BY 2.0

黒人の生徒と教師にとって、これは受け入れがたかった。家では自分たちの言葉を話し、学校では英語を学んできた。教師の多くも、アフリカーンス語で教科を教えられるほど話せなかった。何より、アフリカーンス語は彼らにとって、自分たちを支配し、通行証を調べ、家から追い立てる警官と役人の言葉だった。支配者の言葉で、教科を学べという命令だったのである。英語は少なくとも、外の世界とつながる言葉だった。

1976年の初めから、ソウェトの学校では授業のボイコットが広がった。背景には、1960年代末から広がった黒人意識運動もあった。指導者の一人スティーヴ・ビコは、黒人自身が劣等感を捨て、自分たちの手で解放をつかむべきだと説き、その考えは若い世代の心をとらえていた。生徒たちは代表の組織を作り、6月16日に大規模な抗議の行進を行うことを決めた。

当日の朝、生徒たちはいくつもの学校から集まり、オーランドの競技場をめざして歩いた。歌を歌い、プラカードを掲げた、穏やかな行進だったと多くの参加者は振り返る。行く手を警官隊が塞いだ。催涙弾が撃たれ、生徒たちが石を投げ、そして警官が実弾を撃った。

撃たれた子どもの一人がヘクター・ピーターソンである。12歳だったとされる(13歳とする資料もある)。近くにいた18歳の若者が、ぐったりした少年を抱き上げて走り、そのそばをヘクターの姉が叫びながら並んで走った。地元の新聞の写真記者サム・ンジマがその場面を撮った。ヘクターは近くの診療所に運ばれたが、着いたときには息がなかった。同じ日に撃たれて死んだ子どもは、ほかにもいた。

写真は翌日、南アフリカの新聞に載り、たちまち世界中に配信された。ソウェトでは怒った若者たちが役所の建物や酒類の販売所に火をつけ、暴動は数日のうちにほかの都市の黒人居住区にも広がった。警察と軍は力で押さえ込もうとし、抗議と弾圧は翌年まで続いた。政府の発表では死者は176人とされたが、実際にはそれを大きく上回り、数百人にのぼったと考えられている。正確な数はいまも分かっていない。

政府はアフリカーンス語の強制をまもなく取り下げた。だが、ソウェトの若者たちが変えたのは、言葉の問題だけではなかった。逮捕を逃れるために何千人もの若者が国外へ脱出し、亡命していたアフリカ民族会議(ANC)の武装組織に加わった。獄中のネルソン・マンデラたちの世代に続く、新しい抵抗の担い手が生まれた。

翌1977年9月、ビコが警察の拘留中に、ひどい暴行を受けて死んだ。ソウェトに続くこの事件は国際社会の怒りを呼び、同じ年の11月、国連の安全保障理事会は南アフリカへの武器の輸出を加盟国に義務として禁じた。すでに1960年代から始まっていたスポーツや文化の交流の断絶も広がり、1980年代には欧米の企業や大学が南アフリカへの投資を引き揚げる運動が強まった。アメリカの議会も、大統領の拒否権を覆して制裁の法律を通した。

アパルトヘイトが一夜で崩れたわけではない。1980年代の南アフリカでは非常事態が宣言され、居住区での抵抗と弾圧はむしろ激しくなった。それでも、経済の行き詰まりと国際的な孤立の中で、政府は交渉に向かわざるをえなくなった。1990年にマンデラが釈放され、1994年に全人種が参加する初めての選挙が行われて、アパルトヘイトは終わった(アパルトヘイトの終結)。翌年のラグビーのワールドカップで、マンデラがかつての白人のスポーツの象徴だった代表チームのジャージを着て優勝杯を渡した場面は、新しい国の門出として記憶されている(ラグビー・ワールドカップと南アフリカ)。

アパルトヘイトの終結に関わる図版:F.W. de Klerk, left, the last president of apartheid-era South Africa, and Nelson Mandela, his successor, wait to speak
アパルトヘイトの終結Wikimedia Commons Carol M. Highsmith · Public domain

いま、6月16日は南アフリカで「青年の日」と呼ばれる祝日になっている。ヘクター・ピーターソンが撃たれた場所の近くには、彼の名を冠した記念館が建ち、ンジマの写真が掲げられている。銃を持たない子どもたちが、学ぶ言葉を自分たちで選ぶ権利を求めて歩いた。その日の行進が、のちに体制そのものを揺るがす長い抵抗の始まりになった。

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