人物

ホセ・リサール

José Rizal
AD1861年6月19日 – AD1896年12月30日(享年35)
フィリピン重要度 4

概要

医師であり小説家。武装闘争には反対しながら、反乱を扇動した罪で銃殺された。その死が革命を広げる。

関わったできごと(1)

フィリピン革命1896年 · その処刑が革命を広げた

本文

ホセ・リサールは1861年6月、スペインの植民地だったフィリピンのルソン島、ラグナ湖のほとりの町カランバに生まれた(スペインのフィリピン支配)。父は修道会の持つ広い農園を借りて砂糖を作る豊かな農家で、中国系の血を引く家だった。母テオドラは教養のある人で、幼いリサールに読み書きを教えた。11人きょうだいの7番目で、絵や彫刻、詩に早くから才能を見せた。

ホセ・リサールの肖像
ホセ・リサールの肖像Wikimedia Commons unknown author · Public domain

少年時代に、二つの出来事が彼に影を落とした。1872年、マニラ近くのカビテで兵士の反乱が起き、植民地政府は、フィリピン生まれの改革派の司祭3人を首謀者として処刑した。証拠は乏しく、彼らが修道会の支配に異を唱えていたことが本当の理由と見られた。リサールの兄はその一人と親しかった。同じころ、母が親類の事件に巻き込まれて捕えられ、州都まで長い道を歩かされたうえ、2年余り牢に入れられている。植民地の正義というものを、リサールは身近に見て育った。

マニラのイエズス会の学校で学んだあと、サント・トマス大学で医学を学び始めたが、フィリピン人の学生への差別に嫌気がさし、1882年、21歳でスペインへ渡った。マドリードで医学と哲学・文学を修め、さらにパリとドイツのハイデルベルクで眼科を学んだ。母が目を病み、失明しかけていたことが、眼科を選んだ理由の一つだった。リサールは十を超える言葉を学んだといわれ、ヨーロッパで暮らす間にフィリピン人の留学生たちと、本国の改革を訴える運動に加わった。

リサールの処刑の様子を撮影した写真
リサールの処刑の様子を撮影した写真Wikimedia Commons Manuel Arias Rodríguez · Public domain

1887年、ベルリンで小説『ノリ・メ・タンヘレ』を出版した。題はラテン語で、我に触れるな、という意味の聖書の言葉である。ヨーロッパで学んで故郷に戻った青年が、土地を支配する修道士や、それにすり寄る役人や地主の中で、改革の夢を打ち砕かれていく物語だった。資金が足りず、友人の援助でようやく刷った本である。フィリピンに持ち込まれると、修道会は激しく反発し、本は禁じられた。それでもひそかに回し読みされ、多くの人がそこに自分たちの社会を見た。1891年には続編『エル・フィリブステリスモ』をベルギーのゲントで出した。今度は、改革に絶望した主人公が、暴力による復讐を企てる話である。リサールはこの本を、少年時代に処刑された3人の司祭に捧げた。

1888年、帰国していたフィリピンを再び離れたリサールは、ヨーロッパへ向かう途中、日本に1か月半ほど滞在した。東京で日本語を学び、歌舞伎を見て、一人の日本人女性と親しくなったことが、彼の日記と手紙に残っている。

11歳のリサール。アテネオ・デ・マニラの学生
11歳のリサール。アテネオ・デ・マニラの学生Wikimedia Commons Public domain

1892年、リサールは帰国し、平和的な改革を目指す団体ラ・リガ・フィリピーナを作った。だが数日後に逮捕され、ミンダナオ島北部の町ダピタンへ流された。流刑は4年に及んだ。リサールはそこで診療所を開いて住民を無料で診察し、学校を作って少年たちを教え、町に水道を引いた。目の手術を受けに来た人の連れのアイルランド系の女性ジョセフィン・ブラッケンと、この地で暮らし始める。

リサールが流されたまさにその頃、マニラでは、倉庫番のアンドレス・ボニファシオらが、武力でスペインからの独立を目指す秘密結社カティプナンを作っていた。会員たちはリサールを精神的な指導者として仰いだ。1896年、カティプナンは使いをダピタンへ送り、蜂起への協力を求めた。リサールは、武器も準備も足りず時期が早すぎる、と反対した。

同じころ、リサールはキューバで流行していた黄熱病の治療に軍医として志願し、許されてスペインへ向かう船に乗った。その航海中の8月、カティプナンの存在が発覚し、フィリピン革命が始まる。リサールは船の上で捕えられ、バルセロナから送り返された。マニラの軍法会議は、彼を反乱を扇動した罪に問い、12月26日、死刑を言い渡した。彼が反対していた蜂起の責任を、問われたのである。

フィリピン革命に関わる図版:UltimosFilipinas
フィリピン革命Wikimedia Commons Desconocido (pertenece a la misma sesión de fotos que File:Los defensores de Baler en Barcelona (septiembre de 1899, La · Public domain

処刑の前夜、リサールは独房で、スペイン語の長い詩を書いた。愛しい祖国よ、さようなら、と始まる詩である。彼はそれを小さなアルコールランプの中に隠し、面会に来た妹に、中に何かある、と英語でささやいて渡したと伝えられる。のちに「最後の別れ」と呼ばれるこの詩は、フィリピンで最もよく知られる詩になった。

1896年12月30日の朝、リサールはマニラの海に面した広場で銃殺された。35歳だった。背中から撃たれるよう命じられたが、撃たれた瞬間に身をひねり、空を向いて倒れた、と伝えられる。処刑の直前にジョセフィンと結婚したとも、カトリック教会に戻ることを誓う文書に署名したとも言われるが、どちらについても、本当にあったのかどうか論争が続いている。

リサールがダピタン流刑中に作った家系図(1890年代頃)
リサールがダピタン流刑中に作った家系図(1890年代頃)Wikimedia Commons Jose Rizal (1861 - 1896) · Public domain

その死は、彼が反対した革命をかえって広げた。蜂起は各地に広がり、指導者はエミリオ・アギナルドに移る。1898年、米西戦争のなかでフィリピンは独立を宣言したが、アメリカがスペインに代わって支配し、独立が実現したのは1946年である。アメリカの統治のもとで、リサールは国民的英雄として公に祭られるようになった。武装闘争を指導したボニファシオより、改革を説いたリサールの方が植民地の支配者にとって都合がよかったからだ、という批判もある。

いま、リサールが撃たれた広場はリサール公園と呼ばれ、12月30日は祝日になっている。フィリピンの学生は法律によって、彼の二つの小説を読むことになっている。

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