できごと

マロロス共和国

Malolos Republic
AD1899年1月23日
重要度 4
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国オランダ領東インドラタナコーシン朝(シャム)日本パプアニューギニアマラヤ安南朝鮮王朝フィリピンフランス領インドシナネパールセイロンAD1899年1月23日マロロス
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1899年1月23日の版図を描いています(15勢力)。

概要

カティプーナンの蜂起(1896年)と、米西戦争を経て、アギナルドが1898年6月に独立を宣言し、マロロスで憲法をつくった。アジアで最初の共和国憲法。しかしアメリカはスペインから2000万ドルでフィリピンを買い、独立を認めなかった。1899年2月、比米戦争。3年で、フィリピン人の死者は20万人以上。1901年、アギナルド捕縛。1946年まで、アメリカの統治が続いた。

場所

マロロス
14.84°N 120.81°E · フィリピン

関わった人(1)

エミリオ・アギナルドAD1869年3月22日–AD1964年2月6日 · 大統領

本文

フィリピンは16世紀の後半から300年あまり、スペインの植民地だった(スペインのフィリピン支配)。19世紀の後半になると、ヨーロッパで学んだフィリピン人の知識人たちが、植民地の改革を求める運動を起こす。その代表が、医師で小説家のホセ・リサールである。一方、マニラの下町では、アンドレス・ボニファシオらが1892年に秘密結社カティプーナンを作り、武力による独立を目指した。1896年8月、結社の存在が発覚し、蜂起が始まった(フィリピン革命)。同じ年の12月30日、蜂起に加わっていなかったリサールが反逆の罪で銃殺され、人々の怒りはさらに燃え上がった。

蜂起の中で頭角を現したのが、カヴィテ州の若い町長エミリオ・アギナルドだった。彼は戦いで成果を上げ、1897年には革命政府の指導者に選ばれる。その過程で、主導権を争ったボニファシオは裁判にかけられ処刑された。同じ年の末、アギナルドはスペインと和議を結び、補償金と引き換えに香港へ退いた。

エミリオ・アギナルド(1919年頃)
エミリオ・アギナルドWikimedia Commons Harris & Ewing Photo Studio · Public domain

1898年4月、米西戦争が起きる。5月1日、デューイ提督の率いるアメリカ艦隊がマニラ湾でスペイン艦隊を全滅させた。アメリカはアギナルドを香港から呼び戻し、彼はフィリピン人の部隊を率いて各地でスペイン軍を破っていった。6月12日、カヴィテ州カウィットの自宅で、アギナルドはフィリピンの独立を宣言した。このとき新しい国旗が掲げられ、のちの国歌となる行進曲が演奏された。アギナルドは、アメリカが独立を支持してくれると信じていた。アメリカの側は、のちにそんな約束はしていないと主張している。

しかし、スペインとアメリカは、フィリピン人を抜きにして話を進めていた。8月13日、マニラの攻防では、両国の間で事前に段取りが付けられ、スペイン軍は形ばかりの抵抗の後にアメリカ軍へ降伏した。フィリピン人の部隊は市内に入ることを許されなかった。12月10日のパリ条約で、スペインはフィリピンを2000万ドルと引き換えにアメリカへ譲った。フィリピン人の代表は、交渉の席に呼ばれなかった。

1899年、マロロスのフィリピン兵
1899年、マロロスのフィリピン兵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その間にも、フィリピン人は自分たちの国の形を作ろうとしていた。1898年9月15日、マニラの北のブラカン州マロロスにあるバラソアイン教会で、革命議会が開かれた。議員の多くは弁護士や医師、地主、商人など、教育を受けた地方の有力者だった。議会が11月29日に採択した憲法は、1899年1月21日にアギナルドによって公布され、1月23日、マロロスでフィリピン共和国の発足が宣言された。アギナルドが大統領に就いた。

マロロス憲法は、共和制と三権分立をうたい、国民の基本的な権利を細かく書き込んだ。議会の力が強く、大統領は議会によって選ばれる。最も激しく争われたのは教会と国家の関係で、カトリック教会を国の教会としない政教分離の条文は、1票差でようやく通ったとされる。アギナルドの側近で革命の理論家だったアポリナリオ・マビニは、戦時には強い大統領が要るとして、議会に大きな力を与えるこの憲法に批判的だった。それでもこの憲法は、アジアで最初の民主的な共和国の憲法とされている。

エミリオ・アギナルドの秘書アントニオ・バウチスタの家
エミリオ・アギナルドの秘書アントニオ・バウチスタの家Wikimedia Commons Public domain

だが、この共和国を承認した国はなかった。1899年2月4日の夜、マニラ郊外で、見回りのアメリカ兵がフィリピン兵を撃ったことから戦闘が始まった。米比戦争である。その2日後、アメリカの上院はパリ条約を批准した。賛成は、批准に必要な3分の2をわずか1票上回るだけだった。

戦争は、はじめ正規軍どうしの戦いだったが、フィリピン軍はやがて山や村に散ってゲリラ戦に移った。アメリカ軍は村を焼き、住民を囲い込んだ区域に集め、捕らえた者に水責めの拷問を加えた。1901年、サマール島のバランギガでアメリカ兵48人が殺されると、司令官のジェイコブ・スミス将軍は、10歳以上の男を皆殺しにして島を荒野にせよと命じた。のちに軍法会議にかけられたが、退役させられただけで済んでいる。

1901年3月、アギナルドはルソン島北東部のパラナンで、味方を装ったアメリカ側の部隊にだまし討ちで捕らえられ、まもなくアメリカへの忠誠を誓った。アメリカは1902年7月に戦争の終結を宣言したが、各地の抵抗はその後も何年も続いた。戦死したフィリピン兵は2万人ほど、戦闘や飢え、疫病で死んだ民間人は20万人以上と推計される。推計には大きな幅があり、さらに多く見積もる研究もある。アメリカ兵の死者は4000人を超えた。

マロロス共和国は、わずか2年ほどで消えた。フィリピンは以後アメリカの植民地として治められ、1935年に自治政府が置かれ、日本の占領を経て、1946年7月4日にようやく独立した(フィリピンの独立)。独立記念日は長く7月4日だったが、1962年、マカパガル大統領はこれを、アギナルドが独立を宣言した6月12日に改めた。アメリカから与えられた独立ではなく、自分たちで宣言した独立を祝う。その選択の背後には、マロロスで一度は形になった共和国の記憶がある。

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