概要
カティプーナンの蜂起(1896年)と、米西戦争を経て、アギナルドが1898年6月に独立を宣言し、マロロスで憲法をつくった。アジアで最初の共和国憲法。しかしアメリカはスペインから2000万ドルでフィリピンを買い、独立を認めなかった。1899年2月、比米戦争。3年で、フィリピン人の死者は20万人以上。1901年、アギナルド捕縛。1946年まで、アメリカの統治が続いた。
場所
14.84°N 120.81°E · フィリピン
関わった人(1)
エミリオ・アギナルドAD1869年3月22日–AD1964年2月6日 · 大統領本文
1892年、アンドレス・ボニファシオがマニラで「カティプーナン」を作った。血で署名する秘密結社。目標は、スペインからの独立。1896年8月、発覚して蜂起。同じ年12月30日、医師で小説家のホセ・リサール(改革派で、蜂起には反対していた)が銃殺された。それが火に油を注いだ。
エミリオ・アギナルド。カヴィテ州カウィットの町長。軍事的に成功した唯一の指導者。1897年3月、テヘロス会議で革命政府の大統領に選ばれ、ボニファシオを裁判にかけて、5月に処刑した。12月、スペインと妥協して、40万ペソで香港へ亡命した。
1898年4月、米西戦争。5月1日、デューイ提督がマニラ湾のスペイン艦隊を沈めた。アメリカはアギナルドを香港から連れ戻した(後に「独立を約束していない」と主張した)。6月12日、カウィットの自宅のバルコニーで、独立宣言が読まれた。旗が掲げられ、行進曲が演奏された(いまのフィリピン国歌)。
8月13日、「マニラの模擬戦」。スペインとアメリカが密かに取り決めて、形だけ戦って、市をアメリカに渡した。フィリピン軍は市に入れられなかった。12月10日、パリ条約。スペインはフィリピンを2000万ドルでアメリカに譲った。フィリピン人は交渉に呼ばれなかった。
1898年9月15日、マロロス(ブラカン州)のバラソアイン教会で、革命議会が開かれた。弁護士、医師、地主、司祭。11月29日、憲法を採択。1899年1月21日、アギナルドが公布。1月23日、フィリピン共和国が宣言された。
マロロス憲法。共和制、三権分立、議会が強い(一院制の議会が大統領を選ぶ)、政教分離(1票差で通った)、基本的人権の列挙。アジアで最初の、民主的な共和国憲法とされる。
2月4日、マニラ郊外で、アメリカ兵がフィリピン兵を撃った。比米戦争。
3年半。正規戦から、ゲリラ戦へ。アメリカ軍は、村を焼き、住民を「再集中地区」に囲い、水責め(ウォーター・キュア)を使った。サマール島では、バランギガでアメリカ兵48人が殺された報復に、ジェイコブ・スミス将軍が「10歳以上の男は全員殺せ。島を吼える荒野にせよ」と命じた(後に軍法会議にかけられ、譴責のみで退役)。
フィリピン兵の死者2万、民間人の死者20万(戦闘、飢餓、コレラを含む。推計は幅が広く、60万という説もある)。アメリカ兵の死者4200。
1901年3月23日、アギナルドはイサベラ州パラナンで、味方に化けた部隊に捕らえられ、4月19日、アメリカへの忠誠を宣誓した。1902年7月、アメリカは戦争の終結を宣言した(ゲリラは1913年まで残った)。
1946年7月4日、独立。1962年、マカパガル大統領が、独立記念日を7月4日から6月12日(1898年の宣言の日)に変えた。