グリム兄弟のドイツ語辞典
概要
メルヒェンを集めた兄弟の、本来の仕事は言語学である。兄ヤーコプは、ゲルマン語の子音が規則的に推移したことを示した(グリムの法則)。1838年、二人は生涯をかけてドイツ語の歴史的な辞典に取りかかった。ドイツがまだ統一されていない時代に、共通の言語をもって国民を定義する仕事でもあった。ヤーコプはF項の Frucht(果実)まで書いて死んだ。完成したのは1961年、着手から123年後、全32巻である。
場所
51.31°N 9.48°E · ドイツ・ヘッセン州
本文
ヤーコプ・グリム(1785年生)とヴィルヘルム・グリム(1786年生)の兄弟は、ドイツ中部ヘッセンのハーナウに生まれた。父は地方の役人を務める法律家だったが、ヤーコプが11歳のときに死に、大家族は苦しい暮らしに追い込まれた。兄弟は伯母の援助で学校を出て、マールブルク大学で法学を学んだ。そこで出会ったのが、若い法学者サヴィニーである。法は立法者が机の上で作るものではなく、民族の暮らしの中で歴史とともに育ってくるものだ、とサヴィニーは説いた。兄弟はこの考えを、法から言葉と物語へと移していった。
世界に知られているのは、兄弟が集めた昔話である。1812年に初版が出た『子どもと家庭のメルヒェン』(グリム童話)は、版を重ねるごとにヴィルヘルムの手で書き直され、子どもに読ませる本としての形を整えていった。兄弟は農村を回って素朴な語り手から話を聞き集めたと長く信じられてきたが、実際には、話の多くはカッセルの薬屋の娘たちのような、町の知り合いの若い女性たちから聞いたものだった。フランスから逃れてきたユグノーの家系の語り手も多く、フランスの昔話の影響が濃く入っている。

だが兄弟にとって、本業は言葉の研究だった。ヤーコプは1819年から『ドイツ語文法』を書き始め、1822年の第2版で、のちに「グリムの法則」と呼ばれる規則を示した。ゲルマン語の子音は、古いインド・ヨーロッパ語の子音から規則正しくずれている、というものである。ラテン語の「パテル(父)」が英語では「ファーザー」に、ラテン語の「トレス(三)」が英語では「スリー」になる。唇を閉じて出すパの音が唇をすり合わせるファの音に、トの音が舌先をかむスの音に、というずれが、たまたまではなく、多くの語にわたって同じように起きている。デンマークのラスムス・ラスクが先に気づいていたことを、ヤーコプは体系立てて示した。言葉の変化はでたらめな訛りではなく、法則に従う現象である。この見方によって、言葉の比較は科学になった。法則に合わない例も、のちに別の規則で説明されていく。
1837年、兄弟はゲッティンゲン大学の教授だった。この年、ハノーファーの新しい王エルンスト・アウグストが、それまでの憲法を一方的に廃止した。七人の教授が抗議の声明に署名し、そこにはグリム兄弟も加わっていた。七人は全員が大学を追われ、ヤーコプを含む三人は国外へ追放された。「ゲッティンゲンの七教授」の事件は、ドイツの自由主義の象徴として語り継がれることになる。職を失った兄弟は、故郷のカッセルに戻った。

その兄弟のもとに、ライプツィヒの出版社が一つの話を持ち込んだ。ドイツ語の大きな辞典を作らないか、というのである。1838年、兄弟はこれを引き受けた。構想は壮大だった。ルターのドイツ語訳聖書から同時代までのドイツ語の語を一つ残らず取り上げ、それぞれについて、どの時代にどんな意味で使われてきたかを、実際の文章から引いた用例で示す。辞典は、言葉の歴史そのものを記録するものになるはずだった。
それは政治の仕事でもあった。この時代、「ドイツ」という国はまだない。あるのは三十あまりの国々のゆるやかな連合で、方言は互いに通じないほど違った。共通の言葉を一冊の書物として定めることは、言葉によってドイツ人という国民を描き出すことだった。ヤーコプは辞典の序文で、この仕事がドイツの人々を一つに結ぶものだという思いを書いている。同じころ、セルビアのヴーク・カラジッチ、フィンランドの『カレワラ』を編んだリョンロートなど、ヨーロッパの各地で、言葉と物語によって自分たちの国民を形づくろうとする仕事が進んでいた。
作業は膨大だった。兄弟は各地の協力者に古い書物を読ませ、用例を紙片に書き写して送らせた。1841年には、プロイセン王に招かれてベルリンへ移り、科学アカデミーの一員として研究を続けた。だが二人とも、ほかにも大きな仕事を抱えていた。辞典の第1巻が出たのは1854年、着手から十六年後のことで、収められたのは「A」の項から「ビーアモルケ」という語までだった。
1859年、ヴィルヘルムが死んだ。彼が受け持っていた「D」の項は途中だった。1863年にはヤーコプが死んだ。そのとき彼が書いていたのは、「フルフト(果実)」という語の項目だった。兄弟が自分たちの手で書き終えられたのは、アルファベットのほんの初めの部分にすぎなかった。
仕事は後の世代に引き継がれた。編集者は何度も代わり、プロイセン科学アカデミーが事業を担った。ドイツは統一され、二つの世界大戦をくぐり、東西に分かれた。冷戦のさなかには、東ベルリンのアカデミーと西ドイツのゲッティンゲンの研究所が作業を分け合って続けた。国が二つに割れても、この辞典だけは共同の事業であり続けた。完成したのは1961年、着手から百二十三年後である。全三十二巻、見出しの語は三十万を超えた。
完成したとき、最初のほうの巻はすでに百年前のものになっていた。そこで初めの部分を新しく書き直す作業が始まり、それも二十一世紀まで続いた。同じ19世紀には、イギリスでも歴史的な原則に立つ大辞典の編集が始まっている(オックスフォード英語辞典)。

グリム兄弟は、昔話を集めた兄弟として世界中で知られている。二人が人生の後半を注いだ辞典を開く人は、それよりずっと少ない。だが二人にとって、昔話と辞典は同じ仕事だった。民族の暮らしの中で、歴史とともに育ってきたものを、消える前に書きとめる。物語も、言葉も、法も、彼らはそう考えていた。