できごと

イサンドルワナの戦い

Battle of Isandlwana
AD1879年1月22日
重要度 4
イサンドルワナの戦いに関わる図版:Isandhlwana
Isandhlwana Wikimedia Commons Charles Edwin Fripp · Public domain

概要

槍と盾のズールー軍2万が、ライフルを持つイギリス軍の野営を包囲して全滅させた。植民地戦争でイギリスが受けた最大の敗北になる。

場所

イサンドルワナ
-28.36°N 30.65°E · 南アフリカ・クワズール・ナタール州

関わった人(1)

ケチワヨAD1826年頃–AD1884年2月8日 · ズールー王

本文

19世紀の初め、南アフリカの東岸で、シャカ・ズールーが周りの首長国を次々に従えてズールー王国を築いた(ズールー王国の勃興)。若い男たちを年齢ごとの連隊に組み、短い突き槍と大きな牛皮の盾で密集して戦わせる。王国は半世紀のあいだ、この地域で最も強い軍事国家であり続けた。1873年に即位したケチワヨは、その軍事の仕組みを立て直し、イギリスのナタール植民地とも、表向きは良好な関係を保っていた。

風向きを変えたのは、イギリスの南アフリカ政策だった。南アフリカ高等弁務官バートル・フリアは、ケープ植民地、ナタール、ボーア人の共和国、アフリカ人の王国をひとまとめにした連邦を作ろうとし、その妨げになる独立した強い王国を取り除く必要があると考えていた。1878年12月、フリアはズールーに最後通牒を突きつけた。30日以内に軍の連隊を解散し、若い男が自由に結婚することを認め、イギリスの駐在官を受け入れよ。王国の土台を手放せという要求で、受け入れられるはずがなかった。ロンドンの本国政府も、新たな戦争には乗り気でなかったとされる。

チェルムズフォード卿
チェルムズフォード卿Wikimedia Commons Samuel Robert Lock / George C. Whitfield / Adam Cuerden · CC0

1879年1月11日、期限が切れると、チェルムスフォード卿の率いる軍が国境を越えた。主力は三つの縦隊に分かれて王都ウルンディを目指す。チェルムスフォード自身が同行した中央の縦隊は、1月20日、スフィンクスのような形の岩山イサンドルワナのふもとに野営した。

野営地には、塹壕も、荷車を輪に並べた防御陣も作られなかった。数日でたたむ予定の一時の陣だったうえ、地面が硬く、荷車は補給の往復に使っていた。偵察の報告から、チェルムスフォードはズールーの主力が南東にいると考え、22日の未明、兵の半分ほどを率いて野営地を離れた。

1879年の英軍によるズールーランド軍事地図。ロークズ・ドリフトは赤・緑・青の境界線の交点、イサンドルワナはその右手前方
1879年の英軍によるズールーランド軍事地図。ロークズ・ドリフトは赤・緑・青の境界線の交点、イサンドルワナはその右手前方Wikimedia Commons Intelligence Branch of the Quartermaster General’s Department of the British Army · Public domain

そのころ、ズールー軍の主力2万あまりは、北東の谷にひそんでいた。昼前、野営地から出た騎馬の偵察隊が、谷を埋めて座っている戦士たちに出くわす。見つかったズールー軍は、そのまま一斉に立ち上がって押し寄せた。指揮したのは老練な将ンチングワヨたちで、隊形は伝統の「水牛の角」だった。正面の「胸」が敵を受け止め、左右の「角」が両脇から回り込んで包み、後ろの「腰」が控える。

野営地に残っていたのは、プリーン中佐の指揮する第24歩兵連隊の6個中隊を中心に、植民地の騎兵と現地人の部隊を合わせて1700人あまりだった。後装式のマルティニ・ヘンリー銃は強力で、正面の戦士たちは一時、草の中に伏せて前に進めなくなった。しかし兵たちは野営地から離れた場所に薄く長く散らばっており、その間にズールーの角が両脇に回り込んでいく。

ズールーの戦士たち(1882年)
ズールーの戦士たち(1882年)Wikimedia Commons Public domain

弾薬箱の蓋をねじで留めてあり、こじ開けるのに手間取ったために弾が届かなかった、という話が長く語られてきた。近年の研究では、箱は比較的開けやすく、それより前線と弾薬の置き場の距離が遠すぎたことのほうが大きかったとも言われる。いずれにせよ、射撃が途切れたところへ戦士たちがなだれ込み、戦いは槍の距離になった。午後2時半ごろ、部分日食で空が暗くなったことが記録に残っている。

1300人あまりが死んだ。生きて逃げ延びたイギリス兵は、わずかしかいない。ズールー側も、銃弾に倒れた戦士は1000人とも2000人を超えるとも言われ、勝利の代償は重かった。戦場には、王国の慣わしに従って腹を裂かれたイギリス兵の遺体が残された。死者の魂を解き放つための作法だったとされる。

ダブラマンジ・カムパンデ
ダブラマンジ・カムパンデWikimedia Commons W. I. Mosses · Public domain

その日の夕方から翌朝にかけて、近くの渡し場ロークズ・ドリフトの小さな補給所を、ズールーの予備の連隊3000〜4000が襲った。守っていたのは150人ほどで、穀物の袋とビスケットの箱で壁を作り、一晩持ちこたえた。イギリスは、この防戦の兵士たちに11個のヴィクトリア十字章を与えた。大敗の知らせを和らげる英雄譚が必要だった、と見る歴史家もいる。

イサンドルワナの知らせは、2月にロンドンへ届いた。槍と盾の軍が、近代の銃を持つイギリス正規軍を正面から打ち破るとは、誰も考えていなかった。植民地戦争でイギリスが受けた最大級の敗北として、ディズレーリ政権を揺さぶった。

ホレス・スミス=ドリエン将軍によるイサンドルワナの戦いの図(1925年)
ホレス・スミス=ドリエン将軍によるイサンドルワナの戦いの図(1925年)Wikimedia Commons General Sir Horace Smith-Dorrien · Public domain

半年後、イギリスは兵を倍にして戻ってきた。1879年7月4日、ウルンディの戦いで、イギリス軍は歩兵の方陣を組み、銃とガトリング砲で突撃を打ち砕いた。王都は焼かれ、8月にケチワヨは捕らえられた。王国は13の首長国に分割され、互いの争いに追い込まれて、1887年にはイギリスに併合される。

ケチワヨは1882年にロンドンを訪れ、ヴィクトリア女王に会って王位の回復を訴えた。いったん国に戻されたものの、内戦の中で1884年に亡くなる。イサンドルワナは、アフリカの軍が植民地の軍に勝った戦いとして、のちのアドワの戦いとともに記憶されている。ただ、勝利が王国を救わなかった点で、二つの戦いの結末は大きく違った。

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