三国干渉
概要
下関条約の6日後、ロシア、ドイツ、フランスが遼東半島の返還を「勧告」した。返した。「臥薪嘗胆」が流行語になり、以後10年、軍備を倍にして日露戦争へ向かう。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
関わった人(1)
陸奥宗光AD1844年8月20日–AD1897年8月24日 · 外相本文
1895年4月23日、東京の外務省に、ロシア、ドイツ、フランスの三国の公使がそろって現れた。6日前に結ばれた下関条約で日本が清から得た遼東半島を、清に返すよう「勧告」するためである。言葉は友好的な忠告の形をとっていたが、中身は脅しだった。
日清戦争に勝った日本は、4月17日、下関の料亭春帆楼で、伊藤博文と外相陸奥宗光が清の李鴻章と講和条約を結んだ。清は朝鮮の独立を認め、遼東半島と台湾と澎湖諸島を日本に譲り、銀2億両の賠償金を払う。日本にとっては、近代の国家として初めて外国に勝ち取った大きな果実だった。

三国の申し入れは、遼東半島を日本が持てば清の首都を脅かし、朝鮮の独立を名ばかりにし、東アジアの平和を妨げる、というものだった。応対したのは外務次官の林董である。陸奥は病のため、神戸に近い舞子で療養していた。三国のうち最も強硬だったのはドイツで、公使は覚書を手渡す際に、日本が三国と戦っても勝ち目はないという趣旨を露骨に伝えた。ロシアは太平洋の艦隊を日本の近海に集め、いつでも動ける構えを見せた。
本当の主役はロシアだった。シベリア鉄道を建設中のロシアは、満洲を通って不凍港へ出る道を狙っており、日本が遼東半島の先の旅順を押さえることを何としても避けたかった。フランスは同盟国ロシアに付き合い、ドイツはロシアの目を東アジアに向けさせ、自分も中国に足場を得る機会をうかがっていた。

翌24日、広島の大本営で開かれた御前会議で、首相の伊藤は、勧告を拒むか、列国の会議にかけるか、受け入れるかの三つの道を示した。戦争を終えたばかりの日本には、三つの大国と戦う力はなかった。会議にかけることがいったん決まったが、療養先で知らせを受けた陸奥は、会議を開けば列国が下関条約そのものに口を出し、条約全体が崩れかねないと反対した。イギリスやアメリカに助けを求めたが、どちらも中立を守ると答えた。5月4日、日本は勧告を受け入れることを決めた。条約の批准書はその直後に予定どおり交換され、5月10日、天皇は遼東半島を返す詔勅を出した。日本は返す見返りに3000万両の上乗せを清から受け取り、11月に還付の条約が結ばれた。
国内の怒りは大きかった。兵士の血で得た土地を、外国の脅しで手放したのである。新聞『日本』に載った論説の題から、「臥薪嘗胆」という言葉が広まった。古代中国の越王勾践が、薪の上に寝て苦い胆を嘗め、敗北の屈辱を忘れずに呉への復讐を果たした故事である。日本は、いつかロシアを見返すことを合言葉に、軍備の拡張に突き進んだ。陸軍は師団の数をほぼ倍にし、海軍は戦艦6隻と装甲巡洋艦6隻をそろえる計画を立て、清からの賠償金の多くがそこに注ぎ込まれた。足りない分は増税でまかなわれた。
三国干渉の本当の意味は、その後に明らかになる。1897年、ドイツは山東で宣教師が殺されたのを口実に膠州湾を占領し、翌年これを租借した。そして1898年3月、ロシアは、日本に返させたばかりの遼東半島の旅順と大連を、清から租借した。イギリスは対抗して威海衛と九龍半島の一部を、フランスは南の広州湾を手に入れた。列強による中国の分割が一気に進み、その反発はやがて義和団の乱を呼ぶ。朝鮮では、日本が三国に屈したのを見た宮廷がロシアに近づき、それを覆そうとした日本の公使が乙未事変を起こすことになる。

陸奥はこの年の秋、療養の床で、日清戦争の外交を振り返る回想録『蹇蹇録』を口述で書き上げた。干渉を受け入れた判断について、ほかに取るべき策はなかったと信じたい、と記している。陸奥は2年後の1897年、結核のため53歳で亡くなった。『蹇蹇録』は外交の機密を含むため長く公にされず、広く読まれるようになったのは昭和に入ってからである。
臥薪嘗胆の10年は、1902年の日英同盟を経て、1904年の日露戦争に行き着いた。日本は多くの犠牲を払った旅順攻囲戦の末に、三国干渉で手放した旅順を、今度はロシアから奪い取ることになる。