人物

ケチワヨ

Cetshwayo
AD1826年頃 – AD1884年2月8日(享年58・推定)
ズールー王国重要度 3

概要

シャカの甥で、ズールーの最後の独立した王。イギリスの最後通牒を拒み、イサンドルワナで勝ち、ウルンディで敗れた。ロンドンへ連れていかれ、群衆に歓迎されている。

所属

ズールー王国

関わったできごと(2)

イサンドルワナの戦いAD1879年1月22日 · ズールー王ウルンディの戦いAD1879年7月4日 · ズールー王。捕らえられた

本文

1826年ごろ、ズールー王国の王族ムパンデの長男として生まれた。ムパンデは、王国を築いたシャカ・ズールーの異母弟にあたる。ケチワヨが生まれたころの王はまだシャカで、ズールーは南部アフリカで最も強い軍事国家に成長していた(ズールー王国の勃興)。1828年にシャカが異母弟ディンガネらに暗殺され、そのディンガネもボーア人(オランダ系の入植者)との戦いに敗れた後、1840年にムパンデが王位についた。ムパンデの治世は30年あまり続き、比較的穏やかな時代だった。

ンダブコ・カムパンデ王子の写真
ンダブコ・カムパンデ王子の写真Wikimedia Commons Original uploader was Humansdorpie at en.wikipedia · Public domain

ムパンデは、どの息子を後継とするかをはっきりさせなかった。1856年、ケチワヨは、父が目をかけていた異母弟ムブヤジとトゥゲラ川のほとりで戦い、圧勝した。ムブヤジは戦死し、その支持者たちは、女や子どもまで川に追い詰められて殺された。死者は数万に上ったともいわれる。以後、ケチワヨは老いた父に代わって実権を握った。

1872年にムパンデが死に、翌1873年、ケチワヨは正式に王となった。即位の儀式には、隣のイギリス領ナタール植民地の役人シェプストンが立ち会い、王に冠を授けた。ケチワヨはイギリスとの友好を重んじ、その後ろ盾で国境の外の脅威、とりわけ西のトランスヴァールのボーア人と土地を争う際の支えにしようと考えていた。彼は軍の制度を立て直し、王国の結束を固めることにも力を入れた。

ズールー戦争後、ロンドンでのセテワヨ
ズールー戦争後、ロンドンでのセテワヨWikimedia Commons "Photographed by Alex. Bassano, 25, Old Bond Street" · Public domain

ところが、イギリスの方針が変わった。1870年代、イギリスの植民地大臣カーナヴォンは、南アフリカのイギリス植民地とボーア人の国々を一つの連邦にまとめようとした。1877年、イギリスはトランスヴァールを併合し、ズールーとボーア人の土地争いを、自分たちが引き継ぐことになった。南アフリカに送られた高等弁務官バートル・フレアは、数万の兵を抱える独立したズールー王国を、連邦の計画を危うくする存在とみた。

1878年12月、フレアはケチワヨに最後通牒を突きつけた。若い男たちを年齢ごとの連隊に組み込むズールーの軍の制度を廃止すること、男女が王の許しなく結婚できるようにすること、宣教師を受け入れること、イギリスの駐在官を置いてその監督を受けること。30日以内に応じよ、というものだった。王国の仕組みそのものを解体せよという要求で、受け入れられないことを見越したものだったとされる。フレアはロンドンの本国政府の明確な許しを得ないまま、この通牒を出していた。

ケチワヨは応じなかった。1879年1月、チェルムスフォード卿の率いるイギリス軍がズールーの国に入った。1月22日、イサンドルワナの丘のふもとで、2万を超えるズールーの軍が、野営していたイギリス軍を襲った(イサンドルワナの戦い)。槍と牛皮の盾を持った兵士たちが、牛の角の形に左右から敵を包み込む伝統の戦法で、ライフルと大砲を持つイギリス軍を破り、イギリス側の兵1300人あまりが死んだ。アフリカの軍がヨーロッパの近代的な軍に勝った、最大の敗北の一つとして、イギリスに衝撃を与えた。

イサンドルワナの戦いに関わる図版:Isandhlwana
イサンドルワナの戦いWikimedia Commons Charles Edwin Fripp · Public domain

だが、勝利の代償も大きかった。ズールー側の死者も1000人を超え、同じ日の夜、近くのロークス・ドリフトの拠点を攻めた部隊は、わずか150人ほどの守備隊に退けられた。威信を傷つけられたイギリスは大軍を送り込んだ。7月4日、王の本拠ウルンディ(オンディニ)の前の平原で、イギリス軍は方陣を組んで機関銃と大砲で迎え撃ち、ズールー軍は壊滅した(ウルンディの戦い)。王の村は焼かれた。

ケチワヨは逃れたが、8月の末に捕らえられ、ケープタウンへ送られて幽閉された。イギリスはズールーの国を併合せず、13の地域に分け、それぞれにイギリスに従う首長を置いた。王国を分割して、二度とまとまれないようにするためだった。

アングロ・ズール戦争で捕らえられたのちケープタウンにいるケチワヨ
アングロ・ズール戦争で捕らえられたのちケープタウンにいるケチワヨWikimedia Commons Schomburg Center for Research in Black Culture · Public domain

幽閉の間、ケチワヨはイギリスの政府に手紙を送り続け、自分を国に戻すよう訴えた。その訴えは、イギリスの国内にも同情者を得た。1882年8月、彼はロンドンに招かれた。洋装に身を包んだ王を一目見ようと、宿舎の前には群衆が集まり、新聞は彼の言動を詳しく伝えた。ワイト島の離宮でヴィクトリア女王にも会っている。3年前に自分たちの軍を破った敵の王が、帝国の首都で人気者になった。

翌1883年、ケチワヨはズールーの国に戻された。だが与えられたのは、かつての王国の一部にすぎなかった。分割の間に力を得ていた首長たち、とくにイギリスに取り立てられたジブヘブとの争いがすぐに始まった。その年の7月、ジブヘブの軍はケチワヨの新しい本拠を急襲し、多くの重臣が殺された。ケチワヨは傷を負って逃れ、イギリスの役人の保護を求めた。

1882年の訪英時に描かれたケチワヨの肖像、カール・ルドルフ・ゾーン画
1882年の訪英時に描かれたケチワヨの肖像、カール・ルドルフ・ゾーン画Wikimedia Commons Carl Rudolph Sohn · Public domain

1884年2月、ケチワヨは保護下にあった町エショウェで急死した。50代の後半だった。死因は心臓の病とされたが、毒を盛られたのだという噂がすぐに広まった。いまもはっきりしたことは分かっていない。

息子のディヌズールーが後を継いだが、王国はボーア人の介入と内紛でさらに切り刻まれ、1887年にイギリスに併合された。のちのボーア戦争を経て、ズールーの地は南アフリカ連邦の一部になる。ケチワヨは、独立したズールー王国の最後の王として、またイサンドルワナの勝者として、南アフリカで記憶されている。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1826年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →