できごと

ヴォルムス協約

Concordat of Worms
AD1122年
重要度 3
ヴォルムス協約に関わる図版:Urkunde Wormser Konkordat-bg
Urkunde Wormser Konkordat-bg Wikimedia Commons Urkunde_Wormser_Konkordat.jpg : Unknown Unknown Original uploader was DALIBRI at de.wikipedia derivative work: Saibo ( Δ · Public domain

概要

司教を誰が任命するかをめぐる50年の争いが妥協で終わった。教会と世俗の権力が分かれていく。

場所

ヴォルムス
49.63°N 8.37°E · ドイツ

本文

中世のヨーロッパで、司教や修道院長は二つの顔を持っていた。一つは、信者を導き、聖職者を叙階する霊的な指導者としての顔。もう一つは、広い土地と人を治め、王に軍役を負う領主としての顔である。とくにドイツでは、10世紀のオットー1世の戴冠以来、皇帝が司教に土地と権限を与え、司教を王国の統治の柱にしてきた。司教は結婚せず世襲もしないので、領地が一族に握られる心配が無い。誰を司教にするかを決めることは、皇帝の権力の根幹だった。

11世紀に入ると、教会の中から改革を求める声が強まった。クリュニー修道院の創立に始まる修道院の改革運動は、聖職者の妻帯や、金で聖職を売り買いする慣行を厳しく批判した。改革派から見れば、俗人である皇帝や王が司教を選び、司教の印である指輪と杖を手渡すこと自体が、教会を俗世に従わせる誤りだった。

1075年、改革派の教皇グレゴリウス7世は、俗人による聖職者の叙任を禁じた。ドイツ王ハインリヒ4世はこれに反発し、教皇の廃位を宣言する。教皇は王を破門し、ドイツの諸侯は王に背いた。追い詰められた王は、1077年の冬、北イタリアのカノッサの城に教皇を訪ね、雪の中で三日間赦しを乞うた(カノッサの屈辱)。しかし争いはそこで終わらなかった。ハインリヒは態勢を立て直してローマに攻め込み、グレゴリウスは南イタリアへ逃れて亡命先で死んだ。皇帝と教皇がそれぞれ相手を認めず、対立する教皇や王を立て合う争いが、半世紀近く続いた。これを叙任権闘争と呼ぶ。

カノッサの屈辱に関わる図版:Schwoiser Heinrich vor Canossa
カノッサの屈辱Wikimedia Commons Eduard Schwoiser (1826 — 1902) · Public domain

争いを解く手がかりは、議論の中から生まれた。フランスのシャルトルの司教イヴォらの学者たちは、司教の職のうち、霊的な権能と、世俗の財産や権利を分けて考えることを説いた。前者は教会が授け、後者は王が授ければよい、という考えである。イングランドでは1107年、フランスでもほぼ同じ頃、この考え方に沿った妥協が成立していた。

ドイツでは、ハインリヒ4世の子のハインリヒ5世が、1111年に教皇を捕らえて叙任権を認めさせるという強引な手に出て、かえって反発を招いた。長い争いに双方が疲れたころ、1122年9月、ライン川沿いの町ヴォルムスで、皇帝ハインリヒ5世と教皇カリクストゥス2世の使節が合意を結んだ。

教皇カリクストゥス2世
教皇カリクストゥス2世Wikimedia Commons Public domain

協約で皇帝は、指輪と杖を用いて司教を叙任することを放棄し、司教と修道院長は教会法に従って教会の中で自由に選ばれることを認めた。その代わり教皇は、ドイツでは選挙を皇帝の前で行うこと、選挙に争いがあれば皇帝が判断に加わること、選ばれた者は叙階の前に、皇帝から笏によって世俗の権利を授けられることを認めた。イタリアとブルグントでは、皇帝による笏の授与は叙階の後とされた。霊的な印は教会が、世俗の印は皇帝が授ける。一つの職を二つの面に分けることで、両者の顔を立てたのである。翌年、ローマで開かれた公会議がこの協約を承認した。

どちらが勝ったのかは、見方によって違う。教会は聖職者を選ぶ自由を原則として勝ち取った。皇帝はドイツの司教選びにはなお大きな影響力を残した。だが長い目で見ると、ドイツの皇帝は司教を思うままに任命して王国を治めるという仕組みを失い、司教たちはしだいに皇帝から自立した領主になっていく。諸侯が力を持ち、皇帝の権力が分散していくドイツの歩み(神聖ローマ帝国)は、ここで一つの方向を与えられた。一方の教皇は、叙任権闘争を通じてヨーロッパ全体のキリスト教徒を率いる存在として権威を高め、その力は、四半世紀前の1095年の十字軍の呼びかけにも表れていた。

十字軍の呼びかけに関わる図版:Passages d'outremer Fr5594, fol. 19r, Concile de Clermont
十字軍の呼びかけWikimedia Commons Jean Colombe · Public domain

ヴォルムス協約の意味として、よく指摘されるのは、宗教上の権威と世俗の権力を、別々のものとして扱う考え方が、ここで具体的な取り決めになったことである。もちろん、近代の政教分離とは遠い。教会は依然として巨大な土地を持ち、世俗の政治に深く関わり続けた。それでも、一人の人間が持つ地位を霊的なものと世俗のものに分けて考え、それぞれに別の授け手を置くという発想は、後のヨーロッパで、教会と国家の関係を論じるときの出発点の一つになったとされる。

ヴォルムスの町は、のちに1521年、ルターが皇帝の前で自説の撤回を拒んだ帝国議会の舞台としても知られることになる。教会と世俗の権力の関係は、この町で再び問われることになった。

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