杯酒釈兵権
概要
陳橋で兵に担がれて皇帝になった趙匡胤が、翌年、担いだ将軍たちを酒宴に呼んだ。「あなたたちも、部下に担がれれば」。「土地と屋敷と美女で、余生を」。翌日、全員が辞表を出した。50年の五代で、兵が皇帝を作る時代が、酒で終わった。文治。
場所
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
関わった人(1)
趙匡胤(宋の太祖)AD927年–AD976年 · 皇帝本文
唐の後半、各地に置かれた節度使という軍の司令官たちは、兵と税と土地を握って半ば独立し、朝廷をしのぐ力を持つようになった。きっかけは8世紀の安史の乱である。907年に唐が滅ぶと、華北では半世紀の間に、後梁、後唐、後晋、後漢、後周の五つの王朝が次々に入れ替わった(五代十国)。王朝を倒したのは、たいていその王朝に仕える将軍だった。兵士たちが自分の将を担ぎ上げて皇帝にし、気に入らなければ別の将に乗り換える。皇帝の位は、兵の気分しだいで決まるものになっていた。
960年の正月、北の遼と北漢の軍が攻めてきたという知らせが都の開封に届いた。後周の皇帝は7歳の幼い柴宗訓で、禁軍(皇帝直属の軍)の長である殿前都点検の趙匡胤(宋の太祖)が、軍を率いて北へ向かった。開封の北の陳橋駅に泊まった夜、兵たちは、幼い天子のために命をかけて戦っても誰が報いてくれるのか、いっそ点検を天子にしよう、と騒ぎ出した。弟の趙匡義と腹心の趙普がこの動きを取りまとめた。翌朝、目を覚ました趙匡胤の体に、皇帝の色の黄色い袍が着せかけられ、兵たちは万歳を叫んだ。

趙匡胤は、自分の命令に従うと誓うなら引き受けると言い、太后と幼い皇帝に危害を加えないこと、大臣を辱めないこと、都の倉や民の家を荒らさないことを約束させた。軍は開封に戻り、幼い皇帝は位を譲った。血を流さない政変だった。趙匡胤は、かつて節度使を務めた宋州にちなんで国の名を宋とし、太祖と呼ばれる(宋の成立)。
だが、兵に担がれて皇帝になった者は、同じことが自分の身に起きる恐れを誰よりもよく知っていた。即位の翌年、961年の秋、太祖は、陳橋でともに自分を担いだ石守信、王審琦ら禁軍の将軍たちを宴に招いた。酒が回ったころ、太祖は人払いをして語りはじめたという。自分は諸君のおかげで今の位にいる。だが天子というのは実につらいもので、夜もろくに眠れない。将軍たちが驚いて理由を尋ねると、太祖は言った。この位を欲しがらない者がいるだろうか。
将軍たちは、そのような心を持つ者などおりません、と平伏した。太祖は続けた。諸君にその気が無くても、部下が富貴を望んで、ある日諸君に黄袍を着せたら、断れるだろうか。青ざめた将軍たちが、どうすればよいかと問うと、太祖は、人の一生は短い、金を貯え、良い田と屋敷を買って子孫に残し、歌い手や舞い手を置いて酒を楽しみ、天寿を全うすればよい、自分は諸君と縁組みをして、君臣の間に疑いの無いようにしよう、と答えた。翌日、将軍たちはそろって病と称し、軍の指揮権を返上した。彼らは地方の節度使の名を与えられ、手厚く遇されたが、兵を動かす力は失った。これが「杯酒釈兵権」、一杯の酒で兵権を解いた話である。
この話は、北宋の司馬光の『涑水記聞』や、南宋の李燾の『続資治通鑑長編』などに載っている。ただ、書物によって細部が違い、宴の会話はできすぎているとして、話そのものを後世の脚色とみる研究者もいる。それでも、即位の後まもなく、太祖が禁軍の有力な将軍たちから指揮権を取り上げ、穏やかに退かせたことは確かである。969年にも、地方の節度使たちを宴に招いて、その地位を手放させたと伝えられる。
太祖と趙普は、仕組みの上でも、武人が皇帝を脅かせないようにした。趙普の献策は、節度使の権限を少しずつ奪い、財政を握り、精兵を中央に集めよ、というものだった。禁軍は三つの司令部に分けて互いに牽制させ、兵を動かす命令は文官の役所である枢密院が出すことにした。軍を持つ者は動かせず、動かす者は軍を持たない。部隊は定期的に任地を移され、将と兵が馴れ合わないようにされた。地方の節度使の手からは、税と行政と兵が次々に取り上げられていった。
代わりに重んじられたのが、科挙で選ばれた文官である。宋の時代には科挙の合格者が大幅に増え、学問を積んだ士大夫が政治を担った。言論を理由に士大夫を殺してはならない、という太祖の遺訓が石に刻まれて伝えられたとする話もある(後世の伝えで、真偽は定かでない)。宋は、文を重んじ武を軽んじる国になった。
その代償も大きかった。宋の軍は数こそ多かったが、北の遼(契丹(遼)の建国)や西夏との戦いで苦戦し、澶淵の盟のように、毎年多額の銀や絹を贈って和平を買うことになった。やがて北宋は金に都を奪われ、南宋はモンゴルに滅ぼされる。それでも、宋が319年の歴史の中で、自分の国の将軍の反乱によって倒れることは一度も無かった。五代の武人の時代から、士大夫の文の時代への転換は、一杯の酒の話として語り継がれている。