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Event / できごと

ヴァレンシュタインの暗殺

Assassination of Wallenstein
AD1634年2月25日
重要度 4

概要

皇帝の総司令官が、自分の金で10万の軍を養い、自分で敵と交渉し始めた。皇帝は「反逆者」と布告して、暗殺を認めた。エゲルの城で、部下の将校が宴会で殺され、ヴァレンシュタインは寝室でアイルランド人の大尉に戟で刺された。カトリックの皇帝の、プロテスタント出身の、占星術を信じた将軍。シラーが三部作の劇に書いた。

場所

エゲル(ヘプ)
50.08°N 12.37°E · チェコ

関わった人(1)

ヴァレンシュタインAD1583年9月24日–AD1634年2月25日 · 刺された

本文

1632年11月、リュッツェン。グスタフ・アドルフが死に、ヴァレンシュタインは退いた。1633年、ヴァレンシュタインは戦わなかった。ボヘミアとシュレージエンで軍を休ませ、スウェーデン、ザクセン、ブランデンブルク、フランスと、秘密に、交渉した。何を望んだかは分からない。和平(プロテスタントを認める)、自分のボヘミア王位、皇帝への圧力、全部。皇帝フェルディナント2世とスペインは、彼を疑った。彼は自分の軍を持ち、自分の金で養い、自分の判断で動かした。皇帝は解任できなかった(1630年に一度解任して、1632年に呼び戻すとき、全権を与えていた)。

1634年1月12日、ピルゼン。ヴァレンシュタインは将校たちに「私に従うか」と誓約書に署名させた(「ピルゼンの決議」。「皇帝への忠誠に反しない限り」の但し書きを付けた将校もいた)。1月24日、皇帝は秘密の特許状で解任し、「生死を問わず」捕らえることを認めた。2月18日、公開の布告。「反逆者」。ピッコローミニ、ガラス、アルドリンゲン、そして部下の将校たちが、皇帝の側に回った。

ヴァレンシュタインは2月22日、ピルゼンを出て、エゲル(ボヘミアの西の端、ザクセンとの境)へ。スウェーデン軍とザクセン軍に合流するつもりだった。1000人ほど。2月24日、エゲル。城の司令官ゴードン(スコットランド人)、レスリー(スコットランド人)、バトラー(アイルランド人)。バトラーはピッコローミニの命令を受けていた。

2月25日、夕方。ゴードンが城で宴会を開いて、ヴァレンシュタインの側近の将軍4人(イロー、テルツキー、キンスキー、ノイマン)を招いた。ヴァレンシュタインは病気(痛風、と言われる)で来なかった。デザートの後、バトラーの竜騎兵が部屋に入って「皇帝万歳」。4人は殺された(テルツキーは長く戦った)。

夜10時頃。バトラーの部下、デヴルー大尉(アイルランド人)が、兵を連れて、市の広場のパッハエルベルの家(ヴァレンシュタインの宿)へ。侍従を殺した。ヴァレンシュタインは寝室で、窓辺に立っていた(騒ぎで起きた)。デヴルーが「反逆者」と叫んで、戟(パルチザン)で胸を突いた。ヴァレンシュタインは両手を広げて、何も言わずに、死んだ。50歳。遺体は絨毯に包まれて、階段を引きずり下ろされた。

フェルディナント2世は3000のミサを彼の魂のために捧げさせ、彼の財産を没収して、殺した将校たちに配った。ピッコローミニ、ガラス、バトラー、ゴードン、レスリー。デヴルーは1000グルデンの年金。

ケプラーは1608年と1625年に彼の星占いを作った。1625年のは「1634年3月に恐ろしい混乱」で終わっていた。ヴァレンシュタインは占星術師セーニを側に置いていた。セーニは前日、「危険が迫っている」と言った、と伝える。

シラー『ヴァレンシュタイン』三部作(1798〜99年)。「彼の性格の像は、歴史の中で揺れている。党派の憎しみと愛情がそれをゆがめた」。シラーは彼を悲劇の主人公にした。決められない人。星を見て、人を信じられず、それでも自分の軍を信じた人。

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