ヴァレンシュタインの暗殺
概要
皇帝の総司令官が、自分の金で10万の軍を養い、自分で敵と交渉し始めた。皇帝は「反逆者」と布告して、暗殺を認めた。エゲルの城で、部下の将校が宴会で殺され、ヴァレンシュタインは寝室でアイルランド人の大尉に戟で刺された。カトリックの皇帝の、プロテスタント出身の、占星術を信じた将軍。シラーが三部作の劇に書いた。
場所
50.08°N 12.37°E · チェコ
関わった人(1)
ヴァレンシュタインAD1583年9月24日–AD1634年2月25日 · 刺された本文
ヴァレンシュタインは、ボヘミアのプロテスタントの小貴族の家に生まれ、若くしてカトリックに改宗した。裕福な未亡人との結婚で財を得、三十年戦争の初めにボヘミアの反乱が鎮められると、没収された反乱貴族の土地を安く買い集めて、一代で大領主にのし上がった。1625年、彼は神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に、自分の金で軍を集めて皇帝のために戦うと申し出る。軍は、占領した土地から取り立てる軍税で養う。この仕組みで、彼の軍はたちまち膨れ上がり、最盛期には10万を超えたと言われる。
ヴァレンシュタインは北ドイツを席巻し、皇帝から北ドイツのメクレンブルク公の位まで与えられた。だが、成り上がりの将軍の力を、ドイツの諸侯は恐れ、憎んだ。1630年、諸侯の求めに押されて、皇帝は彼を解任する。その同じ年、スウェーデン王グスタフ2世アドルフがドイツに上陸した。皇帝軍は敗れ続け、窮地に立った皇帝は1632年、ヴァレンシュタインを呼び戻した。このとき彼は、軍の指揮について、ほとんど全権に近い権限を手にしたとされる。

1632年11月のリュッツェンの戦いで、グスタフ・アドルフは戦死した。だがヴァレンシュタインも兵を退き、それから1年あまり、ほとんど戦わなかった。ボヘミアとシュレージエンで軍を休ませながら、彼は敵であるはずのスウェーデン、ザクセン、ブランデンブルク、さらにはフランスと、秘密の交渉を重ねていた。何を求めていたのかは、いまも分からない。プロテスタントとの和平で戦争を終わらせることか、ボヘミアの王冠か、皇帝に条件を呑ませることか。本人が手の内を誰にも明かさなかったため、歴史家の見方は分かれている。
皇帝の宮廷と、皇帝と同じハプスブルク家のスペインの使節は、彼を疑った。自分の金で養い、自分に忠誠を誓う大軍を持つ将軍が、皇帝の頭越しに敵と話している。皇帝の命令に従わず、援軍を求められても動かない。1634年1月、ヴァレンシュタインはボヘミア西部のピルゼンで将校たちを集め、自分に従うという誓約書に署名させた。これが、反逆の企ての決定的な証拠と受け取られた。

1月24日、皇帝は秘密の勅書で彼を解任し、首謀者を生死にかかわらず捕らえることを認めた。2月18日には、彼を反逆者とする布告が公にされる。それまで彼の下にいた主な将軍たち、ピッコローミニやガラスは、次々と皇帝の側についた。軍が自分から離れていくのを知ったヴァレンシュタインは、2月22日、わずかな兵とともにピルゼンを出て、ザクセンとの境に近いエゲル(いまのチェコのヘプ)へ向かった。スウェーデン軍とザクセン軍に身を寄せるつもりだったと見られる。
2月24日、一行はエゲルに着いた。町の守備を預かっていたのは、スコットランド出身のゴードンとレスリー、それにアイルランド出身のバトラーで、彼らは異国から来て皇帝に仕える傭兵の将校だった。バトラーは、反逆者を捕らえよという命令を受けていた。3人は相談し、殺すことに決めた。

翌25日の夕方、ゴードンは城で宴を開き、ヴァレンシュタインの側近の4人、将軍イロー、義兄の伯爵テルツキー、キンスキー伯、騎兵隊長ノイマンを招いた。ヴァレンシュタイン自身は病で床についていて、来なかった。宴が進んだころ、バトラーの竜騎兵がなだれ込み、4人は斬り殺された。
その夜、バトラーの部下でアイルランド出身のデヴルー大尉が、兵を連れて町の広場に面したヴァレンシュタインの宿所へ向かった。番兵を退け、寝室の扉を破ると、騒ぎで起き出したヴァレンシュタインが寝間着姿で立っていた。デヴルーは彼を反逆者と罵り、槍の一種である矛槍で胸を突いた。ヴァレンシュタインは、ほとんど何も言わずに倒れたと伝えられる。50歳だった。遺体は絨毯にくるまれて運び出された。

皇帝は、ヴァレンシュタインの魂のために多くのミサを捧げさせる一方で、彼の広大な領地と財産を没収し、暗殺に関わった将校たちに分け与えた。殺した者たちは報われ、殺された者は反逆者のまま残った。だがその後の調査でも、彼が本当に皇帝を裏切るつもりだったかを示す決め手は見つからなかったとされる。戦争はなお14年続き、1648年のウェストファリア条約でようやく終わる。
ヴァレンシュタインは占星術を深く信じた人でもあった。若いころにはヨハネス・ケプラーに自分の星占いを作らせ、身辺に占星術師を置いていた。ケプラーの占いが1634年に大きな災いがあると告げていた、という話も伝えられるが、後世の脚色も混じっている。カトリックの皇帝に仕えた元プロテスタントで、星を読み、人を信じず、それでも自分の軍だけは信じた男。その姿は人々の想像をかき立てた。18世紀の終わり、フリードリヒ・シラーは三部作の劇『ヴァレンシュタイン』を書き、決断をためらううちに破滅していく悲劇の主人公として彼を描いた。シラーはその序詞で、党派の憎しみと好意によって、彼の人物像は歴史の中で揺れ動いている、と記している。