概要
ローマ法を継受した大陸の刑事手続きでは、死刑にするには自白か2人の目撃証人が要った。証拠が半分しかないとき、残りを埋めるために拷問が制度化されていた。18世紀、これが次々に廃止される。プロイセン1754年、スウェーデン1772年、トスカーナ1786年、フランスは1780年に予備拷問を、1788年に処刑前の拷問を廃した。理由は人道だけではない。状況証拠から裁判官が心証で判断してよい、という証拠法の転換が並行していた。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
**なぜ拷問が制度になったか**。
13世紀、大陸ヨーロッパは神明裁判を捨て、ローマ法に基づく糺問手続き(インクィジティオ)を採用した。裁判官が、自ら証拠を集め、審理する。
そして、証拠の基準が、**厳格に数値化された**。
**法定証拠主義**。
死刑や身体刑を科すには、次のいずれかが必要である。
- **2人の信頼できる目撃証人**の一致した証言。 - **被告の自白**。
これを「**完全証拠**」と呼ぶ。
1人の証人しかいなければ、「半証拠」。状況証拠(凶器を持っていた、血が付いていた、その場から逃げた)は、いくつ積み上げても「半証拠」の断片にしかならない。
裁判官が「明らかに有罪だ」と確信しても、完全証拠がなければ、有罪にできない。
この制度は、恣意的な裁きを防ぐために作られた。裁判官の主観を排し、客観的な基準で決める。
**しかし**——殺人の目撃者が2人いることは、めったにない。
だから、**自白を取るしかない**。
**拷問の規則**。
拷問は、無秩序な暴力ではなく、**手続き**として整備された。
- 拷問にかけるには、既に**半証拠**が必要(何の疑いもない者を拷問することはできない)。 - 裁判官が立ち会い、書記が記録する。 - 医師または外科医が同席する(死なせてはならない)。 - 方法と時間に制限がある(多くの地域で、同じ被疑者に同じ方法を3回まで、など)。 - **誘導してはならない**。犯人しか知りえない事実を、被疑者が自分から述べることが求められた。 - **拷問室での自白は無効**。翌日、拷問室の外で、自由な状態で「先の自白は真実である」と繰り返させる。
最後の規則が、最も欺瞞的である。撤回すれば、また拷問された。
**方法**。地域と時代で異なるが、多く使われたのは——ストラッパード(後ろ手に縛って吊り上げる)、水責め、脚を締める万力、拷問台。
**ヨーロッパの外**。
拷問は、ヨーロッパに固有ではない。中国、日本(江戸期の笞打・石抱・海老責・釣責)、イスラーム世界、その他多くの司法に存在した。日本でも、自白が有罪の要件だった(「入牢証文」の制度)。
日本の拷問が法的に廃止されるのは、**1879年**(明治12年)である。
**イングランドの例外**。
コモン・ローの下では、拷問は司法手続きに含まれなかった。陪審が事実を認定するので、自白を要件とする必要がなかった。
(ただし、国王大権に基づく星室庁裁判所などで、政治犯に対して行われた。1640年の星室庁廃止で、これも終わった。)
**18世紀の廃止**。
- **プロイセン**:1740年、フリードリヒ2世が即位直後に大幅に制限。1754年、完全廃止。 - **ザクセン**:1770年。 - **オーストリア**:1776年、マリア・テレジア(宮廷顧問ヨーゼフ・フォン・ゾンネンフェルスの説得による)。 - **スウェーデン**:1772年。 - **フランス**:**1780年**、ルイ16世が「予備拷問」(自白を得るための拷問)を廃止。**1788年**、「事前拷問」(処刑前に共犯者の名を得るための拷問)を廃止。 - **トスカーナ**:1786年、レオポルディーナ法典で、拷問も死刑も廃止。 - **ロシア**:1801年、アレクサンドル1世。
**なぜ廃止できたか**。
啓蒙思想の影響——ヴォルテール(カラス事件。1762年、プロテスタントの商人ジャン・カラスが息子殺しの疑いで車裂きにされ、ヴォルテールが冤罪を暴いた)、モンテスキュー、ベッカリーア——が、しばしば理由として挙げられる。
しかし、法制史家ジョン・ラングバインが指摘した、より構造的な説明がある。
**証拠法が、先に変わっていた**。
17世紀から、大陸の裁判所は、完全証拠がない事件で、死刑ではない中間的な刑(ガレー船の漕役、流刑、懲役)を科す実務を発達させていた。「**特別刑(poena extraordinaria)**」。
これらの刑には、完全証拠は要らない。裁判官の**心証**で足りる。
そして、17〜18世紀に、ガレー船の漕役、植民地への流刑、そして**懲役刑**(監獄で労働させる)という、死刑に代わる重い刑が実用になった。
つまり、**自白がなくても、重い罰を科せるようになった**。
だから、拷問は不要になった。
(ラングバインの説明は、啓蒙思想の役割を否定するものではなく、思想が受け入れられる土台がいつできたかを示すものである。)
**再来**。
拷問は、19〜20世紀に、**法の外**で戻ってきた。
秘密警察、植民地の治安維持、戦時の尋問、独裁政権。手続きも記録もない。
1948年の世界人権宣言第5条。「何人も、拷問または残虐な、非人道的なもしくは屈辱的な取扱いもしくは刑罰を受けることはない」。
1984年、**拷問等禁止条約**。「いかなる例外的な事態も——戦争状態、戦争の脅威、国内の政治不安、その他の公の緊急事態も——拷問を正当化する根拠として援用することはできない」。
**それでも**。
2002〜03年、アメリカ司法省が「**強化尋問技法**」を法的に正当化する意見書を作成した(いわゆる「拷問メモ」)。水責め(ウォーターボーディング)を含む。
2014年、アメリカ上院情報特別委員会の報告書が公表された。結論の一つ。これらの技法は、**有用な情報を得る手段として効果がなかった**。
ベッカリーアが250年前に書いていたことである。
「拷問は、真実の試練を、苦痛に耐える力の試練にすり替える」。