できごと

拷問の廃止

The abolition of judicial torture
AD1780年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国ネーデルラント連邦共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国エジプトオーストリア帝国フランス王国スペインポーランド・リトアニア共和国モロッコAlgiersイギリスアイルランド王国TunisBrandenburgヴェネツィア共和国NaplesTripolitaniaCyrenaicaプロイセンAD1780年パリ
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概要

ローマ法を継受した大陸の刑事手続きでは、死刑にするには自白か2人の目撃証人が要った。証拠が半分しかないとき、残りを埋めるために拷問が制度化されていた。18世紀、これが次々に廃止される。プロイセン1754年、スウェーデン1772年、トスカーナ1786年、フランスは1780年に予備拷問を、1788年に処刑前の拷問を廃した。理由は人道だけではない。状況証拠から裁判官が心証で判断してよい、という証拠法の転換が並行していた。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

本文

ヨーロッパ大陸で拷問が裁判の手続きに組み込まれたのは、13世紀のことである。それまでの裁きでは、熱した鉄を握らせたり、水に沈めたりして神の判断を仰ぐ神明裁判が広く使われていた。1215年に教会が聖職者の関与を禁じると、大陸の国々はローマ法にならった新しい手続きに移った。裁判官が自分で証拠を集め、取り調べ、判決を下す糺問の手続きである。

この手続きでは、証拠の基準が厳しく数で決められた。死刑や重い身体刑を科すには、信頼できる二人の目撃証人が一致して証言するか、被告自身が自白するかのどちらかが要る。これを完全な証拠と呼んだ。証人が一人しかいなければ半分の証拠であり、凶器を持っていた、血が付いていた、その場から逃げたといった状況証拠は、いくら積み重ねても半分の証拠の切れ端にしかならない。裁判官が明らかに有罪だと確信しても、完全な証拠がなければ有罪にできなかった。

古代よりヨーロッパで用いられた拷問器具「拷問台(ラック)」
古代よりヨーロッパで用いられた拷問器具「拷問台(ラック)」Wikimedia Commons Public domain

この仕組みは、もともと裁判官の思い込みによる勝手な裁きを防ぐために作られた。しかし、殺人の現場に目撃者が二人いることはめったにない。足りない分を埋めるには、自白を取るしかない。こうして拷問は、証拠の不足を補う正式な手段になった。

拷問は無秩序な暴力ではなく、細かな規則のある手続きだった。拷問にかけるには、すでに半分の証拠がそろっていなければならない。裁判官が立ち会い、書記が記録し、医師が同席して死なせないように見張る。方法と回数にも制限があった。誘導は禁じられ、犯人しか知りえない事実を被疑者が自分から述べることが求められた。そして拷問の場での自白はそのままでは使えず、翌日、拷問の部屋の外で、先の自白は真実だと繰り返させる決まりだった。撤回すれば、再び拷問にかけられた。この最後の規則に、制度の欺瞞がいちばんよく表れている。使われたのは、後ろ手に縛って吊り上げる責め、水責め、脚を締めつける道具、体を引き伸ばす台などである。

石抱
石抱Wikimedia Commons 平凡社(Heibonsha)、日本国で著作権の保護期間が満了 · Public domain

拷問はヨーロッパだけのものではない。中国にも、イスラーム世界にも、江戸時代の日本にもあった。日本でも有罪には本人の自白(口書)が欠かせず、笞打ち、石抱き、海老責め、釣責めが使われた。日本で拷問が法の上で廃されたのは、1879年(明治12年)である。

一方、イングランドのコモン・ローでは、拷問は通常の裁判の手続きに入っていなかった。事実を認定するのは陪審であり、自白は有罪の要件ではなかったからである。ただし国王の大権のもとで、反逆の疑いのある者を拷問する令状が出されることはあり、それも1640年を最後に途絶えた。

ベトナム戦争中、米軍に拘束され尋問を待つベトコン兵士(1967年)
ベトナム戦争中、米軍に拘束され尋問を待つベトコン兵士(1967年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

18世紀、大陸の国々は次々に拷問を廃していく。プロイセンではフリードリヒ2世(大王)が即位直後の1740年に大きく制限し、1754年に全廃した。スウェーデンが1772年、オーストリアが1776年(マリア・テレジアの治世)、トスカーナが1786年に続いた。トスカーナの新しい刑法典は、拷問とともに死刑まで廃した。フランスでは1780年、ルイ16世が自白を得るための拷問を廃し、1788年には処刑の前に共犯者の名を吐かせるための拷問も廃した。ロシアは1801年である。

廃止の理由として、まず挙げられるのは啓蒙思想である。モンテスキューが批判し、1764年のベッカリーア『犯罪と刑罰』は、拷問は頑健な悪人を放免し、ひ弱な無実の者を罰する確かな方法だと書いた。1762年、トゥールーズでプロテスタントの商人ジャン・カラスが息子殺しの疑いで拷問の末に処刑されると、ヴォルテールがこれを冤罪だと訴える運動を起こし、三年後にカラスの名誉は回復された。この事件は、拷問と思い込みの裁きがどれほど危ういかを広く知らしめた。

ベッカリーア『犯罪と刑罰』に関わる図版:Dei delitti e delle pene 1764
ベッカリーア『犯罪と刑罰』Wikimedia Commons Public domain

これとは別に、法制史家ジョン・ラングバインは、より構造的な説明を示した。証拠の扱いのほうが先に変わっていた、というのである。17世紀から、大陸の裁判所は完全な証拠がそろわない事件に、死刑ではない中間の刑を科す実務を広げていた。ガレー船を漕がせる刑、遠くへの追放、監獄での強制労働である。こうした刑には完全な証拠は要らず、裁判官の心証で足りた。自白がなくても重い罰を科せるようになったので、自白を絞り出す拷問は要らなくなった。ラングバインの説明は思想の役割を否定するものではなく、思想が受け入れられる土台がいつできたかを示すものとして読まれている。

フランスでは、革命の人権宣言が、有罪と宣告されるまでは無罪と推定し、身柄を押さえるのに必要のない厳しさは法で抑えると定めた。しかし拷問は、19世紀から20世紀にかけて、法の外で戻ってきた。秘密警察、植民地の治安維持、戦時の尋問、独裁政権のもとで、手続きも記録も無いまま行われた。1948年の世界人権宣言は第5条で、何人も拷問を受けないと定め、1984年の拷問等禁止条約は、戦争や緊急事態を含むどんな例外的な事態も拷問を正当化しないと書いた。

人権宣言に関わる図版:Declaration of the Rights of Man and of the Citizen in 1789
人権宣言Wikimedia Commons Public domain

それでも、2002年にはアメリカ司法省が、水責めを含む「強化尋問」を法的に正当化する意見書を作った。2014年に公表されたアメリカ上院情報特別委員会の報告書は、これらの手法が有用な情報を得る手段として効果がなかったと結論づけた。苦痛は真実ではなく、苦痛に耐える力を試すにすぎない。ベッカリーアが250年前に書いたことが、もう一度確かめられたことになる。

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