マグナ・カルタ

概要
王も法に従うと文書で認めさせた。立憲政治の遠い出発点とされる。
場所
51.44°N -0.57°E · イギリス・イングランド
本文
1215年6月、ロンドンの西、テムズ川のほとりのラニーミードの草地で、イングランド王ジョンが、反乱を起こした貴族たちの要求を受け入れた。その取り決めを書いた文書が、のちに「マグナ・カルタ(大憲章)」と呼ばれる。王も法に従わなければならないことを、文書で王に認めさせたものとして、立憲政治の遠い出発点とされる。よく「署名した」と言われるが、実際には王は自分で名を書いたのではなく、国王の印章を押させている。
ジョンは、ヘンリー2世の末の息子で、兄のリチャード1世(獅子心王)の跡を継いで1199年に王になった。父の代のイングランド王は、フランスの西半分にも広い領地を持っていた。ところがジョンは、フランス王フィリップ2世との争いに敗れ、1204年までにノルマンディーをはじめとする大陸の領地の大半を失った。取り戻すための戦費を、王は国内から絞り取った。騎士の奉仕の代わりに納めさせる軍役代納金を何度も課し、貴族が領地を相続するときの上納金を引き上げ、未亡人に再婚を強いて金を取った。
王は教会とも争った。カンタベリー大司教の任命をめぐって教皇インノケンティウス3世と対立し、1208年にはイングランド全土で教会の儀式が止められ、翌年には王自身が破門された。1213年、ジョンはついに屈服し、イングランドを教皇から預かる封土とする形で和解した。そして1214年、大陸での反撃に賭けた同盟軍がブーヴィーヌの戦いでフランス王に大敗する。王の威信は地に落ちた。

1215年の春、北部と東部の貴族たちが王への臣従を取り消して挙兵し、5月にはロンドンを占拠した。王は交渉に応じざるを得なくなる。カンタベリー大司教スティーヴン・ラングトンが間に立ち、6月15日、ラニーミードで貴族側の要求をまとめた条項に王の印章が押された。数日後、それをもとにした正式な文書が作られ、各地へ写しが送られた。
並んでいる条文は、のちに63か条に区切られた。大半は、貴族と騎士の利害に関わる具体的な取り決めである。相続の上納金は伯爵領ならいくら、男爵領ならいくらと額が決められ、後見人が預かった子の領地を荒らしてはならない、未亡人は意に反して再婚を強いられない、と定めた。王の森林の拡大を止めること、ロンドン市の古くからの自由を認めること、ワインと穀物の升を国中で統一すること、テムズ川に仕掛けた漁の柵を取り払うことまで書かれている。軍役代納金のような特別の取り立ては、王国の評議会の同意なしには課さない、という条文もあった。

そのうち二つが、後世に生き残った。第39条は、どんな自由人も、同じ身分の者による正当な裁判か、国の法によるのでなければ、捕らえられ、牢に入れられ、財産を奪われ、追放されることはない、と定める。続く第40条は、王は誰に対しても正義を売らず、拒まず、遅らせない、と約束する。
当時、これは貴族のための条文だった。ここでいう「自由人」に、人口の大半を占めていた農奴は含まれていない。条文の目的は、王が気まぐれに貴族の財産と身柄を奪うのを止めることにあった。それでも、王の権力の上に法がある、という考え方がはっきり文字にされた意味は大きかった。第61条は、25人の貴族からなる委員会を置き、王が約束を破れば、その城や土地を差し押さえてよい、とまで定めていた。

和解は長く続かなかった。王は文書が出た直後から教皇に訴え、8月、インノケンティウス3世は、この文書は王の権威を傷つけ、強いられて結んだものだとして、無効を宣言した。王と貴族は再び戦いになり、貴族たちはフランスの王太子ルイを新しい王として招き、ルイはロンドンに入った。その最中の1216年10月、ジョンは病で死ぬ。
本当の意味で歴史が動いたのは、ここからだった。跡を継いだのは9歳のヘンリー3世で、幼い王を支える重臣たちは、貴族を味方に引き戻すために、王の側から文書を出し直した。王を差し押さえる第61条などは削られたが、核心の部分は残った。1217年には森林についての取り決めが別の文書として切り離され、それと区別するために、大きいほうが「大憲章」と呼ばれるようになった。1225年、成人したヘンリー3世は、新しい税を認めてもらう見返りに自らの意思で文書を発布し直す。この1225年の版が、イングランドの法律の書に収められた。

その後の王たちは、貴族や議会と対立するたびに、繰り返しマグナ・カルタの確認を求められた。13世紀半ばには、貴族シモン・ド・モンフォールが王と戦い、騎士や都市の代表を加えた議会を開く(ルイスの戦いとシモン・ド・モンフォールの議会)。税を課すには国の代表の同意が要る、という考えは、こうした争いの中で議会の制度に育っていった。
マグナ・カルタが再び大きな意味を帯びるのは、17世紀である。王権は神から与えられたものだと主張するスチュアート朝の王たちに対し、法律家エドワード・クックらは、この古い文書をイングランド人の古来の自由を記したものとして持ち出した。中世の貴族の特権の文書が、すべての国民の権利の土台として読み替えられたのである。1628年には議会が王に「権利の請願」を突きつけ、王と議会の対立は内戦に至る(清教徒革命と国王処刑)。1689年の権利章典(名誉革命と権利章典)も、その流れの上にある。

この読み替えは海を渡った。アメリカの植民地の人々は、イギリス本国が自分たちの同意なしに課税することを、マグナ・カルタ以来の権利の侵害だと訴えた。合衆国憲法の修正条項にある「法の適正な手続きによらずに、生命、自由、財産を奪われない」という文言は、第39条の遠い子孫である。1948年の世界人権宣言の採択にあたり、起草の中心にいたエレノア・ローズヴェルトは、これが全人類のマグナ・カルタになることを望むと述べた。
1215年の文書の原本は、いまイングランドに4通残っている。現在も効力を持つ法として残っている条文は、ほんの数か条にすぎない。意味は、後から与えられた。800年前に一人の王が窮地で受け入れた取り決めは、それを引き合いに出し続けた後の時代の人々によって、自由の象徴になった。