セティフの虐殺
概要
ヨーロッパの戦勝を祝う日に、独立を求める旗が掲げられ、発砲があった。報復で数千人から数万人が殺される。アルジェリア戦争の起点として記憶されている。
場所
36.19°N 5.41°E · アルジェリア
本文
1945年5月8日、ドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終わった。フランスの植民地だった北アフリカのアルジェリアでも、各地で戦勝を祝う行進が行われた。東部の町セティフでも、朝から人々が集まった。
アルジェリアは1830年からフランスに征服され、本国の一部として扱われていた。100万人近いヨーロッパ系の入植者が良い土地を持ち、800万人ほどのムスリムの住民は、政治の権利の多くを持たなかった。第二次世界大戦では、アルジェリアの多くの若者がフランス軍の兵として戦い、イタリアやフランスの戦場で死んでいた。戦争が終われば何かが変わる、という期待が広がっていた。1941年に連合国が出した大西洋憲章は、民族が自分たちの政府を選ぶ権利をうたっていた。独立や自治を求める運動も強まっていたが、その指導者メッサリ・ハッジは、この年の4月に遠くへ追放されていた。

セティフの行進には、数千人が加わった。その中で、連合国の旗に混じって、独立を求めるプラカードと、後にアルジェリアの国旗になる緑と白の旗が掲げられた。警察が旗を取り上げようとして、もみ合いになった。発砲が起き、旗を持っていた若者が撃たれて死んだ。群衆は暴発し、町の中や周辺の村でヨーロッパ系の住民を襲った。同じ日、近くのゲルマの町でも衝突が起きた。数日のうちに、ヨーロッパ系の住民102人が殺された。
フランス側の報復は、それをはるかに超える規模で、数週間にわたって続いた。軍と警察に加え、入植者たちが自警団を作り、ムスリムの住民を捕らえては殺した。山あいの村々は焼かれ、航空機が村を爆撃し、沖の軍艦が海岸を砲撃した。裁判で死刑になった人も多い。

死者の数は、今も分かっていない。フランス政府の当時の発表では1500人ほど、アルジェリア側は4万5000人と主張してきた。研究者の推計も数千人から数万人まで幅がある。どちらの数字も政治的な意味を背負っていて、確かな記録は残っていない。
この事件は、フランス本国ではほとんど知られなかった。戦勝の喜びのなか、新聞は小さくしか伝えず、政府は事件を反乱の鎮圧として片づけた。当時、フランスの臨時政府を率いていたのはシャルル・ド・ゴールである。
アルジェリアの人々にとっては、まったく違う記憶になった。ナチスと戦う連合国の側で、自由と民族自決のために血を流した。その戦争が終わった日に、自分たちが求めた自由は銃で答えられた。後にアルジェリアを代表する作家となるカテブ・ヤシンは、このとき16歳で、行進に加わって捕らえられた。のちに、この時に自分の考えが決まったと語っている。穏やかな話し合いで権利を広げようとしていた人々のなかにも、武器を取るしかないと考える人が増えた。
同じころ、カリブ海のマルティニーク出身のフランツ・ファノンは、自由フランス軍の兵としてヨーロッパの戦場で戦っていた。のちに精神科医としてアルジェリアに赴任し、独立運動に身を投じて、植民地支配の暴力を論じる本を書くことになる。
鎮圧にあたったフランスの将軍は、これで10年の平和を与えた、と言ったと伝えられる。その言葉どおりのように、9年半後の1954年11月1日、アルジェリアの各地で一斉に武装蜂起が起き、アルジェリア戦争が始まった。戦争は8年続き、1962年にアルジェリアは独立する。アルジェリアは2020年、5月8日を国の記憶の日と定めている。
フランスがこの事件に正面から向き合いはじめたのは、21世紀に入ってからである。2005年、アルジェリア駐在のフランス大使が、セティフで起きたことを許されない悲劇と述べた。その後もフランスの閣僚が現地の追悼に参列するなどしているが、どこまでを国の責任として認めるかは、いまも両国の間の課題として残っている。