アナーニ事件
概要
フランス王の使者が教皇を故郷の館で捕え、三日拘束した。頬を打ったと伝わる。教皇は解放されて一か月で死んだ。教皇が王の上に立つ時代は、ここで終わる。6年後、教皇庁はアヴィニョンへ移る。
場所
41.74°N 13.16°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(2)
ボニファティウス8世AD1230年頃–AD1303年10月11日 · 教皇フィリップ4世(美男王)AD1268年–AD1314年11月29日 · 王本文
13世紀は、ローマ教皇の力が最も強かった時代である。200年ほど前には、教皇に破門された皇帝が雪の中で許しを請うた(カノッサの屈辱)。13世紀の初めには、教皇インノケンティウス3世が、各国の王を臣下のように扱った。教皇は、魂の救いを握る者として、王たちの上に立つと考えられていた。
1294年に教皇になったボニファティウス8世は、その考えを誰よりも強く信じた人だった。ローマ近郊の町アナーニの貴族の出身で、教会法の学識に優れ、気性が激しかった。教皇になると、ローマの名門コロンナ家と争い、その城を攻め落として一族を追放した。

相手になったのは、フランス王フィリップ4世(美男王)である。美男王とあだ名され、王の権力を固めることに心血を注いだ。イングランドとの戦いの費用をまかなうため、王は1296年、フランスの聖職者に税をかけた。ボニファティウス8世は、教皇の許しなく聖職者に税をかけることを禁じる勅書を出した。王は、金と銀を国外へ持ち出すことを禁じて応じた。フランスから教皇庁へ入る献金が止まり、翌年、教皇が折れた。
1301年、王は南フランスのパミエの司教を、反逆の疑いで捕らえた。聖職者を裁くのは教会だと考える教皇は、激しく抗議した。王の側は、教皇の勅書を王の権利を否定するものとして書き換えて広め、反感をあおった。1302年4月、王はパリで、聖職者、貴族、都市の代表を集めた会議を開き、王を支持させた。のちに三部会と呼ばれる会議の始まりである。

同じ年の11月、教皇は勅書『ウナム・サンクタム』を出した。救いを得るためには、すべての人がローマ教皇に従わなければならない。教会には霊的な剣と世俗の剣の二本があり、世俗の剣も、教会のために、教会の許しのもとで振るわれるべきである。教皇の権威を主張した文書として、最も強い言葉で書かれたものの一つである。
王は、もはや教皇と妥協しなかった。王の側近で法律家のギヨーム・ド・ノガレが、教皇を異端、聖職売買、魔術、不道徳などの罪で告発する文書を作り、教皇を裁く公会議を開くよう求めた。教皇は、王を破門する勅書を準備した。その勅書は、9月8日に公にされる予定だった。

その前日、1303年9月7日の朝、ノガレと、教皇に一族を追われた恨みを持つシャッラ・コロンナが、兵を率いてアナーニに入った。教皇は、夏を過ごすため、故郷のこの町の館に滞在していた。町の一部の有力者も彼らに味方した。兵が館に押し入ったとき、70歳を過ぎた教皇は、法衣をまとって座して待ち、ここに私の首がある、と言ったと伝えられる。シャッラが教皇の頬を鉄の籠手で打った、という話も広く知られているが、これは後世に生まれた伝説とされる。
ノガレの狙いは、教皇をフランスへ連れていき、公会議で裁くことだったとみられる。だが、教皇を館に閉じこめたまま、兵たちは館の財宝を略奪した。3日目、アナーニの町の人びとが立ち上がり、兵を追い出して教皇を救い出した。

教皇はローマへ戻った。だが、受けた衝撃は大きく、ひと月あまりのちの10月11日に死んだ。高熱に倒れたとも、屈辱と怒りで正気を失ったとも伝えられる。
後を継いだ教皇は、わずか8か月で死んだ。1305年、選ばれたのはボルドーの大司教だったフランス人で、クレメンス5世と名乗った。彼はローマへ行かず、リヨンで即位し、1309年には南フランスのアヴィニョンに落ち着いた。以後70年ほど、教皇庁はアヴィニョンに置かれ、フランス王の強い影響のもとに入る(教皇のアヴィニョン捕囚)。クレメンス5世は、フィリップ4世の求めに応じて、テンプル騎士団の解散も認めた。
アナーニの事件は、教皇が王の上に立つ時代の終わりを示す出来事とされる。教皇の権威は、破門や勅書では、国の力を固めた王にもはや勝てなかった。教皇庁がローマに戻ったのちも、今度は二人、三人の教皇が並び立つ分裂が起き(教会大分裂)、教皇の権威はさらに傷ついていく。

同じ時代を生きたダンテ・アリギエーリは、ボニファティウス8世を深く憎んでいた。ダンテを故郷のフィレンツェから追放させた党派の後ろ盾が、この教皇だったからである。『神曲』(『神曲』)では、聖職を売り買いした罪人たちの穴にボニファティウスの席を用意させている。だが同時に、ダンテは煉獄篇で、アナーニの出来事を、キリストがその代理者の身において再び捕らえられた、と嘆いた。教皇その人は憎んでも、その座を力で辱めることは許さなかったのである。