できごと

難民条約

The Refugee Convention
AD1951年7月28日
重要度 5
ソビエト連邦大英帝国デンマークアルジェリアスーダンポルトガル帝国サウジアラビアイランチャドマリニジェールエジプトモーリタニアトルコCyraneica (UK Lybia)スウェーデンノルウェーフランスフィンランドスペインFezzan (Frech Lybia)イラクポーランドモロッコイタリアイギリスYugoslaviaルーマニア西サハラTripolitana (UK Lybia)シリアアイスランドCzechoslovakiaチュニジアGermany (Soviet)ブルガリアドイツ(イギリス占領地区)ドイツ(アメリカ占領地区)ハンガリーギリシャオーストリアアイルランドヨルダンAD1951年7月28日ジュネーヴ
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概要

第二次大戦後、ヨーロッパに数百万の帰る場所を持たない人がいた。二十六か国がジュネーヴに集まり、難民を定義し、その保護を条約にした。核心は第三十三条のノン・ルフールマンである。迫害されるおそれのある地へ、追い返してはならない。当初は1951年以前のヨーロッパの事件に限られ、1967年の議定書がその制限を外した。定義は人種、宗教、国籍、政治的意見、特定の社会集団への帰属による迫害である。気候と貧困は、そこに入っていない。

場所

ジュネーヴ
46.20°N 6.14°E · スイス(CERN・国際機関)

本文

1945年、戦争の終わったヨーロッパには、帰る場所を失った人々があふれていた。ドイツへ強制労働に連れて来られた人々、強制収容所を生き延びた人々、戦火を逃れた人々。戦後に国境が引き直されると、新たに追い出される人々も生まれた。東欧からは1200万人を超えるドイツ系の人々が追放されたと推定されている。住む場所を追われた人の数は、合わせて数千万にのぼるとされる。

その中には、帰りたくない人々がいた。ソ連の支配下に入った東欧の故郷へ戻れば、捕らえられるか殺されると恐れた人々である。だが連合国は、ヤルタ会談での取り決めにもとづき、ソ連の国籍を持つとされた人々を、当初は本人の意思に反しても送り返した。送還された人の多くは収容所へ送られ、処刑された者もいた。送還を拒んで命を絶った人もいる。帰れば殺される人を、帰してしまった。その記憶が、のちの条約の直接の背景になる。

ヤルタ会談に関わる図版:Yalta Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin) (B&W)
ヤルタ会談Wikimedia Commons US government photographer · Public domain

もう一つ、苦い記憶があった。1939年、ドイツから逃れた900人あまりのユダヤ人を乗せた客船セントルイス号は、キューバに上陸を拒まれ、アメリカにもカナダにも受け入れられず、ヨーロッパへ引き返した。乗客はイギリスや大陸のいくつかの国に分かれて受け入れられたが、大陸に残った人々のうち250人あまりが、のちにホロコーストで命を落とした。行き場の無い人々を、どこの国も受け入れなかったのである。

難民を国際的に守ろうとする試み自体は、戦間期からあった。ロシア革命の後、国籍を失って各地をさまよう人々のために、国際連盟(国際連盟の発足)の難民高等弁務官だった探検家フリチョフ・ナンセンは、身分証の代わりになる「ナンセン・パスポート」を作った。だが、それは特定の人々を対象にした一時しのぎの仕組みだった。

難民の地位に関する条約の署名国を示す地図
難民の地位に関する条約の署名国を示す地図Wikimedia Commons No machine-readable author provided. IdiotSavant assumed (based on copyright claims). · Public domain

第二次大戦の後、新しくできた国際連合(国際連合の成立)は、難民を守るための常設の仕組みを作ろうとした。1950年、国連難民高等弁務官事務所の設置が決まり(国連難民高等弁務官事務所と難民条約)、翌1951年7月、26か国の代表がジュネーヴに集まって、難民の地位についての条約を話し合った。条約は7月28日に採択され、1954年4月22日に効力を持った。

条約の心臓は、第33条の「ノン・ルフールマン」、追放と送還の禁止の原則である。締約国は、難民を、人種、宗教、国籍、特定の社会的集団の一員であること、政治的意見を理由に、命や自由がおびやかされるおそれのある国の国境へ、どんな方法によっても追い出したり送り返したりしてはならない。帰せば殺される者を、帰してはならない。この原則は、いまでは条約に入っていない国も縛る国際的な慣習のきまりとして、広く認められている。ただし例外もあり、国の安全にとって危険だと考える十分な理由がある者や、重大な罪で有罪が確定した者には、この保護が及ばないことがある。

条約は、難民とは誰かも定めた。人種、宗教、国籍、特定の社会的集団の一員であること、政治的意見という五つの理由のいずれかで迫害を受けるおそれがあり、そのことに十分な理由のある恐れを抱いて国籍のある国の外にいて、その国の保護を受けられない、あるいは恐れのために受けたくない人である。

裏返せば、五つの理由に当てはまらない人は、この定義に入らない。戦争そのものから逃れた人は、厳密には条約の定義に入らないことがある。ただし内戦で特定の集団が狙われている場合は入りうるし、アフリカ統一機構が1969年に結んだ条約や、中南米の国々が1984年に出したカルタヘナ宣言は、侵略や占領、社会の秩序をひどく乱す出来事から逃れた人も難民に含めるよう、定義を広げている。貧しさから逃れた人や、気候の変化や災害から逃れた人は、条約の上では難民ではない。「気候難民」という言葉はよく使われるが、法の言葉ではない。2020年、国連の自由権規約委員会は、気候変動による命の危険が送還を禁じる根拠になりうるという見解を示したが、これは難民条約とは別の枠組みでの判断である。

1951年の条約には、二つの大きな制限があった。一つは時間で、1951年1月1日より前に起きた出来事の結果として難民になった人だけを対象にした。もう一つは地理で、締約国は対象を「ヨーロッパで起きた出来事」に限ることを選べた。つまりこの条約は、もともとヨーロッパの戦後処理のための条約だった。

1960年代、アフリカやアジアで植民地が次々に独立し、その混乱の中で新しい難民が大量に生まれた。条約は、その人々には当てはまらない。そこで1967年に議定書が結ばれ、時間と地理の制限が外された。こうして条約は世界のどこの難民にも当てはまるものになった。いま条約か議定書のどちらかに加わっている国は、150か国近い。

それでも、条約に入っているかどうかと、実際に難民を受け入れているかどうかは別の話である。インド、パキスタン、バングラデシュ、レバノン、ヨルダンなどは条約に入っていないが、大勢の難民を受け入れてきた。逆に、条約に入っていながら受け入れを厳しく絞る国もある。緒方貞子が高等弁務官を務めた1990年代には、国境を越えない国内避難民をどう守るかも大きな課題になった。

国連難民高等弁務官事務所によれば、2023年の末、迫害や紛争で住む場所を追われた人は世界で1億1700万人を超えた。そのうち難民は3700万人ほどで、残りの多くは国境を越えずに自分の国の中で逃げ惑う国内避難民である。国境を越えていないので、この条約の対象にはならない。数としては、こちらのほうが多い。

条約が守られていない、という批判も繰り返されている。地中海などで、難民を乗せた船を海の上で押し返す。別の安全な国を通ってきたのだから、そこへ戻せばよいと言う。だが、その国が本当に安全なのかは問われ続ける。オーストラリアは庇護を求める人々を太平洋の島国の施設に送り、イギリスはルワンダへ送る計画を立てて、2024年の政権交代で取りやめた。シリア内戦やロヒンギャ危機のように、大勢の人が一度に国を追われるたびに、条約の約束は試されてきた。

70年あまり前に条約を書いた人々が見ていたのは、帰れば殺される人を帰してしまった記憶と、どこの国も受け入れなかった船の記憶だった。誰を難民と呼ぶのか、その線の引き方はいまも議論が続く。だが、追われた人を迫害の待つ場所へ追い返してはならない、という一点だけは、その記憶から生まれ、国際社会の約束として残されている。

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