できごと

国民所得の発明

The invention of national income
AD1934年
重要度 5
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国デンマークメキシコDominion of NewfoundlandニカラグアホンジュラスキューバグアテマラAD1934年ワシントンD.C.
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1934年の版図を描いています(11勢力)。

概要

大恐慌のさなか、政府は経済がどれだけ縮んだかを知らなかった。統計がなかったからである。上院の求めで、サイモン・クズネッツが国民所得の推計を作った。1934年、報告書を提出した。彼はその中で警告している。国民所得から、一国の福祉を推し量ることはできない。何を数えるかは選択であり、彼は軍事支出と広告と投機を除くことを主張した。採用されなかった。そして家事と育児と介護は、市場で取引されないという理由で、はじめから外にある。

場所

ワシントンD.C.
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国

関わった人(1)

サイモン・クズネッツAD1901年4月30日–AD1985年7月8日 · 作った

本文

1930年代の初め、アメリカは世界恐慌の底へ沈んでいた。工場が止まり、銀行がつぶれ、職を失った人が町にあふれていた。ところが政府は、経済全体がどれほど縮んだのかを知らなかった。それを示す数字が、どこにも存在しなかったのである。

手元にあった指標は断片的だった。株価、鉄道が運んだ貨物の量、銑鉄や自動車の生産量、一部の産業の雇用の数。どれも経済の一部を照らすだけで、全体の大きさは分からない。不況がどれだけ深いのか、どこが最も傷んでいるのか、手を打ったとして効いているのか。政治家は、ほとんど手探りで判断していた。

サイモン・クズネッツの肖像
サイモン・クズネッツの肖像Wikimedia Commons Federalreserve · Public domain

1932年、連邦議会の上院は、商務省に国の所得全体を推計するよう求める決議をした。この仕事を任されたのが、民間の研究機関である全米経済研究所にいたサイモン・クズネッツだった。1901年にロシア帝国のピンスクで生まれ、1922年にアメリカへ渡ってきた移民で、当時まだ30代の初めだった。彼は少人数の助手とともに、税の記録や産業の調査、賃金の統計など、ばらばらの資料を一つずつ積み上げていった。

1934年1月、報告書『国民所得 1929〜1932年』が上院に提出された。1929年から1932年までのあいだに、アメリカの国民所得はほぼ半分に落ちていた。どの産業でどれだけ減り、賃金と利潤と利子のどれがどれだけ減ったのかも示された。経済の縮みが、初めて一つの数字として見えるようになった。報告書は政府の刊行物としては珍しく、一般の人々にもよく売れたと伝えられる。

国の経済をまとめて数える試み自体は、それより前にもあった。17世紀のイギリスではウィリアム・ペティが国の富を見積もり、20世紀初めにも何人かの学者が推計を試みている。クズネッツの仕事が違ったのは、公の統計として、毎年同じやり方で作り続けられる形を整えたことだった。その後、生産の側、所得の側、支出の側という三つの面から同じものを測り、互いに突き合わせて確かめる枠組みが、アメリカやイギリスの経済学者たちの手で練り上げられていく。誰かの支出は別の誰かの所得であり、それは何かを作ったことへの対価だから、三つは理屈の上では一致する。ケインズ『一般理論』が、経済全体の需要を政府が支えるという考えを広めたことも、この数字を必要とした。全体を数えなければ、全体を動かすことはできない。

数字の重みを決定的にしたのは戦争だった。第二次世界大戦が始まると、アメリカは何をどれだけ作れるのかを問われた。大統領フランクリン・ローズヴェルトは1940年、年に5万機の航空機を作ると宣言した。それは本当に可能なのか。兵器を増やせば、国民の暮らしの品をどれだけ削らなければならないのか。削りすぎれば生活が壊れ、生産そのものも止まる。クズネッツはロバート・ネイサンらとともに戦時の生産の計画にかかわり、国民所得の数字を使って、この問いに答えようとした。

1942年、彼らは軍が立てた生産の目標が、原料や工場の能力から見てその年のうちには達成できないと見積もった。軍の幹部は強く反発したが、最終的に目標は組み直され、作る順番が整理された。無理な計画のまま突き進めば、資材の奪い合いで工場が止まっていたかもしれない。数字は、何ができて何ができないかを、感情抜きで示す道具になった。

戦後、この枠組みは国際的な共通のものになった。国際連合の成立の統計委員会のもとで、1953年に各国が共通のやり方で経済を数えるための体系がまとめられ、その後も改定が重ねられている。主な指標は、国民が国の内外で得た所得を数える国民総生産から、国内で生み出された価値を数える国内総生産、つまりGDPへと移っていった。国境を越えた生産が増え、誰の所得かより、どこで作られたかのほうが政策に使いやすくなったためである。アメリカが主な指標を切り替えたのは1991年だった。

ところで、この数字の生みの親は、最初の報告書の中で、はっきり警告していた。ここで定義した国民所得から、一国の福祉を推し量ることはほとんどできない、と。それから約30年後の1962年にも、彼は雑誌に、成長の量と質、費用と見返り、短い目と長い目を分けて考えるべきだ、成長を目指すなら、何の成長なのか、何のための成長なのかを示さなければならない、という趣旨のことを書いている。

何を数えるかは選択である。クズネッツは、福祉を増やさない支出として、軍事費や広告費、投機的な金融取引、政府の支出の一部などを、国民所得から外すべきだと考えた。しかしこの考えは通らなかった。戦争中に軍事費を外した数字は、戦争を指揮する者にとって役に立たない。戦後もその扱いは変わらなかった。

逆に、はじめから外に置かれたものもある。家事、育児、介護、家庭菜園、自分の家の修繕。市場でお金とやりとりされない仕事は、GDPにまったく入らない。イギリスの経済学者ピグーは1920年の著書で、男が雇っていた家政婦と結婚すると国民の所得が減る、という例を挙げている。同じ仕事が、賃金の払われない仕事に変わるからである。

一方で、数えられてしまうものもある。交通事故が起きれば、車の修理代も治療費も弁護士の費用もGDPを増やす。汚染を出す生産も、その汚染を片づける費用も、両方がGDPを増やす。森を切って売れば増えるが、森が減ったことは差し引かれない。そしてGDPは合計と平均であり、誰がそれを受け取ったかは何も語らない。

1968年3月、ケネディ大統領の弟ロバート・ケネディは、カンザス大学の演説でこの点を突いた。国民総生産は大気の汚染やたばこの広告や、事故の後始末をする救急車まで数えるが、子どもの健康も教育の質も遊ぶ喜びも数えない、人生を生きるに値するものにするもの以外のすべてを測っている、と。彼はその3か月足らず後に撃たれて死んだ。

GDPに代わる、あるいは並べて使う指標も作られてきた。1990年には国連開発計画が、所得に教育と平均寿命を加えた人間開発指数を発表した。経済学者アマルティア・センとマブーブル・ハックが考案にかかわっている。ブータンは国民の幸福を国の目標に掲げた。2009年には、フランスの大統領が置いた委員会が、GDPは生産を測るには有効だが福祉を測る物差しとして使ってはならず、いくつもの指標を併せて見るべきだと報告した。無償の家事や育児を金額に換算して、本体の外側に別の勘定として示す試みも各国で行われている。

それでもGDPは使われ続けている。たった一つの数字で、国どうしを比べられ、年ごとの変化を追え、ニュースで伝えられる。国際的に作り方がそろっている。代わりの指標については、何を入れるかで合意ができない。何を測るかを決めることは、何を大事だと考えるかを決めることであり、それに合意するのはたやすくない。

クズネッツは1971年にノーベル経済学賞を受けた。もう一つよく知られた仕事に、経済が発展すると所得の格差はまず広がり、やがて縮まるという仮説がある。1955年の講演で示したもので、彼自身はこれを、事実が5パーセント、推測が95パーセントで、その推測には願望が混じっているかもしれない、と断っていた。それでもこの仮説は、成長すれば格差は自然に縮むという主張の後ろ盾として、数十年にわたって使われた。2013年、フランスの経済学者トマ・ピケティは、20世紀半ばの格差の縮小は成長の自然な結果ではなく、二つの大戦と恐慌と政策によるものだったと論じている。

いま「経済が成長した」「縮んだ」と言うとき、私たちは90年前に一人の統計学者が組み立てた物差しで測っている。そしてその物差しの限界を最初に書き記したのも、彼自身だった。

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