概要
張居正が全国を検地して、ばらばらだった税と労役を一本にまとめ、銀で納めさせた。「一条に鞭う」。日本とアメリカ大陸から流れ込んだ銀が、それを可能にした。農民は作物を売って銀を得なければならず、市場経済に組み込まれた。張居正が死ぬと一族は財産を没収され、名誉は剥奪されたが、税の仕組みは残った。清の地丁銀へ。世界の銀が、中国の税の形を変えた。
場所
39.90°N 116.41°E · 中国
関わった人(1)
張居正AD1525年5月24日–AD1582年7月9日 · 改革した本文
明の税は、複雑だった。土地税(夏税と秋糧。米と麦の現物)、人頭に基づく労役(里甲——村の運営と徴税、均徭——役所の雑用、駅伝、河川工事)、それに雑多な付加。地方ごと、村ごとに、内容が違った。負担は「戸」に割り当てられ、資産に応じて等級づけられたが、その台帳(黄冊、魚鱗図冊)は、100年以上、更新されていなかった。有力者は土地を隠し、逃げた農民の分は残った者に上乗せされた。
16世紀。日本の石見銀山と、スペインのポトシとメキシコの銀が、中国に流れ込んだ。ポルトガル船とマニラ・ガレオンと、密貿易。中国の生糸と絹と陶磁器の代金として。世界の銀生産の3分の1から半分が、最終的に中国に沈んだと推定される。銀が、市場に十分にあった。
「一条鞭法」。16世紀の半ばから、江南の地方官が個別に始めていた(1530年代の桂萼の提案、1560年代の海瑞の実施)。それを全国に広げたのが張居正。
1578年、全国の検地。土地を測り直した。隠されていた土地が出た。統計上の耕地が、7億畝から11億畝に増えた。
1581年、一条鞭法を全国に。
内容。(1)土地税と、労役と、雑税を、一つにまとめる。(2)労役は、人に課すのでなく、金額に換算して土地税に繰り入れる(人が働きに行く代わりに、銀で払い、役所が人を雇う)。(3)銀で納める。(4)里甲でなく、県が直接、徴収する。
意味。
農民は、収穫した米を市場で売って、銀に換えなければならない。全ての農家が、市場に接続された。江南では、米より儲かる綿と桑を作って、米を買う農家が増えた(商品作物への転換)。
「人」への課税が減り、「土地」への課税に寄った。人の移動が自由になった(戸籍に縛る意味が薄れた)。
同時に、農民は銀の相場の変動と、収穫期に一斉に売ることによる値崩れ(「穀賤傷農」)にさらされた。銀を持つ商人と地主が、間で儲けた。
張居正の最期。1582年、58歳で死んだ。1584年、万暦帝が、彼の専断への恨みと、宦官と政敵の讒言から、家産の没収を命じた。役人が江陵の屋敷を封鎖し、家族が餓死しかけた(十数人が死んだ)。長男は自殺した。爵位と諡は剥奪された。1622年、天啓帝の代に名誉が回復された。
税の仕組みは残った。清はそれを引き継ぎ、1712年、康熙帝が「盛世滋生人丁、永不加賦」(これ以後に増えた人口には人頭税をかけない)を宣言し、雍正帝が「摊丁入地」(人頭税を完全に土地税に繰り入れる)を進めた。「地丁銀」。人頭税が、中国から消えた。
そして、17世紀の半ば、世界の銀の流入が止まった(スペインの生産の減少、日本の輸出制限)。銀が不足し、銀で払う税が実質的に重くなり、農村が疲弊した。明の滅亡の一因に、地球の反対側の銀山が関わっている、という見方がある。