できごと

一条鞭法

Single whip law
AD1581年
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1581年の版図を描いています(28勢力)。

概要

張居正が全国を検地して、ばらばらだった税と労役を一本にまとめ、銀で納めさせた。名はもと「一条編」(一つに編む)で、同じ音の「鞭」の字が当てられた。日本とアメリカ大陸から流れ込んだ銀が、それを可能にした。農民は作物を売って銀を得なければならず、市場経済に組み込まれた。張居正が死ぬと一族は財産を没収され、名誉は剥奪されたが、税の仕組みは残った。清の地丁銀へ。世界の銀が、中国の税の形を変えた。

場所

北京
39.90°N 116.41°E · 中国

関わった人(1)

張居正AD1525年5月24日–AD1582年7月9日 · 改革した

本文

明の成立のとき、太祖洪武帝は、農民が自分の土地を耕し、税を米や麦で納め、労役を人の手で務める国を思い描いた。全国の戸を調べた賦役黄冊と、土地を一筆ごとに描いた魚鱗図冊が作られ、村々は里甲という組に編まれて、税の取り立てや村の運営を順番に担った。

二百年が経つと、この仕組みは実態から大きくずれていた。税は、夏と秋に米や麦で納める田賦のほかに、里甲の務め、役所の雑用を受け持つ均徭、駅の運営や河川の工事など、名目の違う労役と付加税が幾重にも重なり、地方ごと、村ごとに中身が違った。台帳は何十年も正しく改められず、有力な家は土地を隠して税を逃れた。逃げた農民の分は残った者に上乗せされ、重い負担からさらに逃げる者が出る。役人と胥吏は、その複雑さの間で私腹を肥やした。

張居正の坐蟒の賜服の像
張居正Wikimedia Commons 不詳 · Public domain

一方で、16世紀の中国には、かつてないほどの銀が流れ込んでいた。日本では石見銀山が開かれて産出が急に増え、地球の反対側では、スペインがアンデスのポトシ銀山の開発やメキシコで莫大な銀を掘り出していた。中国の生糸や絹織物、陶磁器を求めて、ポルトガル船や密貿易の船が日本の銀を運び、1570年代からはマニラを経由する太平洋の航路(マニラ・ガレオン貿易)がアメリカの銀を運んだ。この時代に世界で掘られた銀の3分の1から半分ほどが、最後は中国に流れ込んだとする推計もある。数字には幅があるが、銀が市場に行き渡り、税を銀で納めさせることが現実の選択肢になったことは確かである。

税と労役をまとめて銀で納めさせる試みは、16世紀の前半から、江南を中心に地方の官僚たちが個別に始めていた。1530年前後には朝廷でその提案がなされ、1560年代には、清廉で知られた海瑞らが任地で実行している。これを全国の制度にしたのが、万暦帝の幼い頃に首輔として国政を握った張居正だった。

張居正は、まず国の財政を立て直すことに力を注いだ。役人の勤務を厳しく査定し、無駄な支出を削り、1578年には全国の土地を測り直す丈量を命じた。数年がかりの調査で、それまで台帳に載っていなかった土地が大量に見つかり、帳簿の上の耕地は大きく増えた。その土台の上で、1581年、一条鞭法が全国に広げられた。

中身は次のようなものである。まず、名目ごとにばらばらだった田賦と労役と雑税を一本にまとめる。労役は、人を実際に働かせるのではなく、金額に換算して、主に土地の広さに応じて割り当てる。納めるのは銀で、役所はその銀で人を雇って仕事をさせる。取り立ても、村の組に任せるのではなく、州や県の役所が直接行う。もっとも、全国が一律に同じ形になったわけではない。銀の出回りが少ない北方や内陸では実施が遅れ、労役が人に課され続けた土地も多かった。名目の多い税を一条に編みまとめるという意味で、もとは一条編法と書かれ、編と同じ音の鞭の字が当てられて一条鞭法の名が定着した。

これによって、農民の暮らしは市場と切り離せなくなった。税を払うには、収穫した米や織った布を市場で売って銀に換えなければならない。江南では、米よりも儲かる綿花や桑を作り、食べる米は買うという農家が増えた。人に課す税が軽くなり、土地に課す税が重くなったので、戸籍で人を土地に縛りつける意味も薄れ、人の移動は前より自由になった。一方で、収穫の時期に皆が一斉に米を売れば値が崩れ、税の銀を得るために多くを売らなければならない。銀の値が上がれば、税は実質的に重くなる。銀を持つ商人や地主が、その間で利益を得た。

張居正は1582年、在職のまま世を去った。彼に厳しく育てられた万暦帝は、成人するとその専断を恨むようになり、政敵や宦官の訴えもあって、死後2年の1584年に家産の没収を命じた。江陵の屋敷は封鎖され、閉じ込められた一族の十数人が飢えて死に、長男は自ら命を絶った。官位と諡は剥奪された。名誉が回復されたのは、明の末の1622年になってからである。

だが、税の仕組みは残った。清は一条鞭法を受け継ぎ、さらに先へ進めた。1712年、康熙帝は、これ以後に増えた人口には丁税(人頭に課す税)をかけないと宣言し、続く雍正帝の時代には、丁税をすべて土地の税に繰り入れる地丁銀が全国に広がった。人の頭数に税をかける仕組みは、ここで中国の税から消えていく。18世紀に中国の人口が急に増えた理由の一つに、この改革を挙げる見方もある。

銀に頼った代償も、やがて表に出た。17世紀の前半、日本からの銀の輸出が減り、アメリカからの流入も揺らいだ。銀が足りなくなれば、銀で納める税は重くなる。寒冷化による凶作、北方の戦争の戦費が重なり、農村は疲弊して、各地で反乱が起きた。地球の反対側の銀山の産出が、明の滅亡に関わっていたのではないかという説がある。銀の流れがどこまで決定的だったかは研究者の間で意見が分かれるが、一条鞭法が、中国の税と農民の暮らしを、世界の銀の流れと結びつけたことは確かである。

動画(1)

054 明の社会 世界史20話プロジェクト第07話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第54講「明の社会」

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