できごと

ローザンヌ条約

Treaty of Lausanne
AD1923年7月24日
重要度 5
ローザンヌ条約に関わる図版:Turkey-Greece-Bulgaria on Treaty of Lausanne
Turkey-Greece-Bulgaria on Treaty of Lausanne Wikimedia Commons Public domain

概要

セーヴル条約(1920年、オスマンを分割)をケマルが戦争で破棄させた。トルコ共和国の国境。アナトリアとトラキア。治外法権の廃止。ギリシアとトルコの住民交換、宗教を基準に、120万人と40万人。生まれた土地を出た。クルドとアルメニアの国は、なくなった。3か月後、共和国。

場所

ローザンヌ
46.52°N 6.63°E · スイス

関わった人(1)

ケマル・アタテュルクAD1881年頃–AD1938年11月10日 · 勝ち取った

本文

オスマン帝国は第一次世界大戦にドイツの側で加わり、敗れた。ガリポリの戦いではイギリスなどの上陸を退けたが、中東の戦線ではアラブの地を失い、1918年10月に休戦を結んだ。戦争のさなかには、アナトリアのアルメニア人が強制移住と虐殺で大量に命を落としていた(アルメニア人虐殺)。戦勝国は戦争中から、帝国の領土を分け合う取り決めを重ねていた(サイクス・ピコ協定)。休戦のあと、連合国の軍はイスタンブールを占領し、1919年5月には、ギリシアの軍がエーゲ海に面したアナトリアの港町スミルナ(いまのイズミル)に上陸した。

同じ月、オスマン軍の将軍ムスタファ・ケマル(のちのケマル・アタテュルク)は、黒海沿岸の町サムスンに上陸し、アナトリアの内陸で抵抗の運動を組織しはじめた。1920年4月、彼はアンカラに大国民議会を開き、イスタンブールの政府とは別の政府を作った。

ドナウ川のアダカレ島。1878年のベルリン会議の講和交渉で見落とされ、法的にオスマン領として残った
ドナウ川のアダカレ島。1878年のベルリン会議の講和交渉で見落とされ、法的にオスマン領として残ったWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1920年8月、イスタンブールのスルタンの政府は、連合国とセーヴル条約を結んだ。帝国の分割を定めた条約である。スミルナとその周辺はギリシアが治め、数年後の住民投票で帰属を決める。ヨーロッパ側の東トラキアもギリシアに渡す。アナトリアの東にはアルメニア人の国を作り、南東にはクルド人の自治の地域を設ける。南の一帯はフランスとイタリアの勢力圏とし、イスタンブールの両側の海峡は国際的な管理のもとに置く。国の財政は列強が監督し、外国人を自国の法で裁けない特権も続く。トルコ人の手に残るのは、アナトリアの中央と黒海沿岸の一部だけだった。アンカラの議会は、この条約を認めなかった。

条約は、戦場で覆された。ケマルの軍はまず東でアルメニアの軍を破り、南ではフランスと、のちにイタリアとも話をつけて兵を引かせた。最大の敵は、アナトリアの奥へ進んでくるギリシアの軍だった。1921年の夏、ギリシア軍はアンカラの手前のサカリヤ川まで迫ったが、3週間に及ぶ戦いの末に退いた。1922年8月、トルコ軍は大攻勢に出てギリシア軍の陣地を破り、9月にはスミルナに入った。町は数日後に大火に包まれ、ギリシア人とアルメニア人の地区が焼け落ちた。港には逃げ場を求める人々があふれた。小アジアの西岸に3000年近く暮らしてきたギリシア人の社会は、ここで終わった。

ローザンヌ条約調印後のトルコ代表団(中央はイスメト・イノニュ)
ローザンヌ条約調印後のトルコ代表団(中央はイスメト・イノニュ)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

10月、連合国とアンカラの政府は休戦を結んだ。11月、大国民議会はスルタンの制度を廃止した。最後のスルタン、メフメト6世は、イギリスの軍艦に乗ってマルタへ去った。600年あまり続いたオスマン家の支配は、こうして終わりに近づいた。

1922年11月、スイスのローザンヌで講和の会議が開かれた。イギリス、フランス、イタリア、日本、ギリシアなどが集まり、トルコの代表はアンカラの政府が送ったイスメト・パシャだった。ケマルの戦友で、のちに2代目の大統領イスメト・イノニュとなる人物である。イスメトは耳が遠く、都合の悪い話は聞こえないふりをして押し通したと伝えられる。イギリスの外相カーゾンは、高圧的にトルコに譲歩を迫った。会議は、外国人の特権やオスマン帝国の借金の扱いをめぐって1923年2月にいったん決裂し、4月に再開された。7月24日、ローザンヌ条約が調印された。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1930年代)
ケマル・アタテュルクWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

条約は、いまのトルコ共和国の国境のほとんどを定めた。アナトリア全体と、ヨーロッパ側の東トラキア、イスタンブールがトルコのものとされた。アルメニア人の国も、クルド人の自治も、条約から消えた。外国人を自国の法で裁けない特権は、16世紀から続いてきたものだったが、廃止された。帝国の借金は、帝国から分かれた国々のあいだで分け合うことになった。イスタンブールの海峡は軍備を置かない地帯とされ、国際的な委員会が通航を見守ることになった。トルコが海峡の管理を取り戻すのは1936年のことである。石油の出るモスルの帰属は決まらず、のちに国際連盟の判断でイギリスの委任統治するイラクに入った。

条約と並んで、もう一つの重い取り決めがあった。会議のさなかの1923年1月、ギリシアとトルコは住民の交換に合意していた。トルコに住むギリシア正教徒をギリシアへ、ギリシアに住むイスラーム教徒をトルコへ、それぞれ強制的に移すというものである。イスタンブールのギリシア人と、ギリシアの西トラキアのイスラーム教徒だけが例外とされた。ギリシアへ移った正教徒は、すでに戦火を逃れていた人々を含めて120万人ほど、トルコへ移ったイスラーム教徒は40万人ほどとされる。

基準は話す言葉ではなく、宗教だった。そのため、トルコ語しか話さないアナトリア中部の正教徒がギリシアへ送られ、ギリシア語しか話さないクレタ島のイスラーム教徒がトルコへ送られた。人々は先祖の墓と家と畑を残して、見知らぬ「祖国」へ渡った。人口500万ほどのギリシアは、一度に100万人を超える難民を受け入れ、アテネやテッサロニキの郊外には難民の町ができた。国と国が合意して大量の住民を入れ替えたこの例は、のちに世界の各地で民族の対立を「解決」する手本として語られることにもなった。

ローザンヌ条約は、第一次世界大戦の敗戦国が、押しつけられた講和を戦争で覆し、対等の立場で結び直した唯一の条約とされる。ドイツがヴェルサイユ条約をどうすることもできなかったのとは対照的だった。1923年10月、アンカラが首都に定められ、10月29日、トルコ共和国が宣言され、ケマルが初代の大統領になった。翌年にはカリフの制度も廃止され、トルコは文字(トルコの文字改革)から服装まで、急速に西洋化を進めていく。

ヴェルサイユ条約に関わる図版:Treaty of Versailles, English version
ヴェルサイユ条約Wikimedia Commons David Lloyd George, Woodrow Wilson and Georges Clemenceau · Public domain

トルコでは、ローザンヌ条約はいまも国の独立の証書として誇りをもって語られる。だが、国を持てなかったクルドの人々、故郷を失ったアルメニアの人々、小アジアから追われたギリシアの人々にとっては、まったく別の記憶を伴う条約である。2023年、条約は100年を迎えた。

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