概要
オスマン帝国のトルコ語は、アラビア文字で書かれていた。だがアラビア文字は母音を表しにくく、トルコ語の音に合わなかった。読み書きのできる人は国民の一割ほどだった。共和国を建てたケマル・アタテュルクは、1928年の夏、イスタンブルの公園で黒板の前に立ち、ラテン文字をもとにした新しいアルファベットを自ら人々に教えてみせた。11月1日、議会は新しい文字を採用する法を定め、翌年から公の場でアラビア文字を使うことが禁じられた。全国に「国民の学校」が開かれ、大人も新しい文字を学んだ。言葉からアラビア語やペルシア語の語を除く運動も続いた。
場所
39.93°N 32.86°E · トルコ
関わった人(1)
ケマル・アタテュルクAD1881年頃–AD1938年11月10日 · 進めた本文
オスマン帝国の時代、トルコ語はアラビア文字で書かれてきた。イスラムとともに伝わった文字で、聖典クルアーンの文字でもあった。だがアラビア文字は、子音を書き母音をほとんど書かない文字で、母音の多いトルコ語の音をうまく表せなかった。書き言葉のオスマン語は、アラビア語とペルシア語の言葉を大量に取り込んだ難しい文体で、庶民の話し言葉とはかけ離れていた。帝国の末期、読み書きのできる人は国民の一割前後だったとされる。
文字を改めようという議論は19世紀からあったが、宗教の側からの反対が強かった。1923年にトルコ共和国を建てたケマル・アタテュルクは、国を近代の西洋の国に作り変える改革を次々に進めた。カリフの位を廃止し、宗教の学校を閉じ、帽子を変えさせ、西暦とメートル法を採り入れた。文字の改革は、その中でも最も大胆なものの一つだった。
1928年の夏、学者たちの委員会が、ラテン文字をもとにした29文字のアルファベットを作った。トルコ語の音に合わせて、ç、ğ、ı、ö、ş、ü といった文字が加えられた。8月9日の夜、アタテュルクはイスタンブルのギュルハネ公園での集まりで演説し、新しい文字を数か月で学ぶよう国民に呼びかけた。その後、彼は各地を回り、自ら黒板の前に立って、チョークで新しい文字を書いて教えてみせた。
11月1日、大国民議会は新しいトルコ文字の採用と施行に関する法を定めた。1929年の元日から、新聞や本、公の文書は新しい文字で書かれ、アラビア文字は公の場から消えた。全国に「国民の学校」が開かれ、16歳から45歳までの国民は、新しい文字を学ぶよう求められた。数年のうちに、百万人を超える人々がこの学校で学んだとされる。
文字の改革は、言葉そのものの改革へと続いた。1932年に作られたトルコ言語協会は、アラビア語とペルシア語から来た言葉をトルコ語の古い言葉や新しく作った言葉に置き換える運動を進めた。こうしてトルコの人々は読み書きの道を大きく開かれたが、そのかわり、数百年分のオスマン時代の文書は、専門の人でなければ読めないものになった。