8月クーデター

概要
新連邦条約の前日、強硬派8人がゴルバチョフをクリミアの別荘に閉じ込め、戦車をモスクワに入れた。エリツィンが戦車の上で「違法だ」。3日。兵は撃たなかった。3人が死んだ。ゴルバチョフは戻ったが、力はエリツィンに。共産党は禁止され、4か月後にソ連はなかった。
場所
55.76°N 37.62°E · ロシア
関わった人(2)
ボリス・エリツィンAD1931年2月1日–AD2007年4月23日 · 戦車の上でゴルバチョフAD1931年3月2日–AD2022年8月30日 · 閉じ込められた本文
1991年の夏、ソ連は形を変えようとしていた。ゴルバチョフが進めたペレストロイカとグラスノスチは、共産党の一党支配をゆるめ、各共和国に自分たちの声を上げさせた。その結果、バルト三国をはじめ、連邦から抜けたいという動きが止まらなくなった。バルトの道のように、人々が手をつないで独立を求める光景は、もう珍しくなかった。ゴルバチョフが出した答えが「新連邦条約」である。ソ連を、主権を持つ共和国のゆるやかな連合に作り替える。ロシアやカザフスタンなど9つの共和国がこれに応じ、まずロシアなどが8月20日に署名することになっていた。
党と軍と治安機関の強硬派にとって、これは国の解体を意味した。条約が結ばれれば、中央の官庁は力を失い、共和国が税も資源も握る。8月4日、ゴルバチョフは家族とともにクリミア半島のフォロスにある別荘へ休暇に出かけた。署名の日にはモスクワへ戻る予定だった。

8月18日の夕方、別荘に客が来た。党書記のバクラーノフとシェーニン、大統領府長官のボルディン、陸軍のヴァレンニコフ将軍らである。ゴルバチョフが受話器を取ると、すべての電話が切れていた。客たちは非常事態を宣言するよう迫り、さもなければ副大統領のヤナーエフに権限を移すと告げた。ゴルバチョフは拒み、彼らを激しく罵って追い返したと、本人がのちに語っている。別荘は外から囲まれ、一家はそのまま閉じ込められた。
8月19日の早朝、国営の通信社とラジオが、「国家非常事態委員会」の設置を伝えた。ゴルバチョフは健康上の理由で職務を果たせず、ヤナーエフ副大統領が大統領の職務を代行するという。委員会は8人で、ヤナーエフのほか、パヴロフ首相、KGB議長のクリュチコフ、国防相のヤゾフ、内相のプーゴ、それにバクラーノフ、農民同盟のスタロドゥプツェフ、国営企業の団体を率いるチジャコフが名を連ねた。テレビはバレエ『白鳥の湖』を繰り返し流した。モスクワの通りには、近郊のタマン師団とカンテミロフ師団の戦車と装甲車が入ってきた。

これに真っ先に逆らったのが、6月の選挙でロシア共和国の大統領になったばかりのボリス・エリツィンである。彼はロシア最高会議の建物、通称「白い家」に入り、その日の昼、建物の前に止まった戦車によじ登った。そして、委員会の行動は憲法に反するクーデターだと宣言し、市民にゼネストを呼びかけた。この姿は外国のテレビ局に撮られ、世界中に流れた。夕方、委員会は記者会見を開いたが、壇上のヤナーエフの手が小刻みに震えているのがテレビに映った。記者からは「クーデターだと分かっているのか」という質問まで飛んだ。
8月20日、白い家のまわりには市民が集まり、バスやトロリーバス、鉄材や石でバリケードを築いた。人数は数万とも十万を超えたともいわれる。委員会は建物を力で取ることを考え、KGBの特殊部隊アルファなどに攻撃の準備をさせた。しかし、部隊の指揮官たちは、市民を撃てば大量の血が流れると考えてためらい、結局、命令は実行されなかった。軍の中にも、空挺部隊の司令官グラチョフのように、エリツィンの側に付く者が出てきた。レニングラードでもソプチャク市長が委員会に従わず、宮殿広場に大群衆が集まった。

流血は一度だけ起きた。8月21日の深夜、モスクワの環状道路の地下道で、装甲車の列を止めようとした若者たちともみ合いになり、ドミトリー・コマーリ、ウラジーミル・ウーソフ、イリヤ・クリチェフスキーの3人が死んだ。3人はのちにソ連邦英雄の称号を贈られている。この夜を越えると、委員会の側は崩れはじめた。21日、ヤゾフ国防相は軍にモスクワからの撤退を命じた。委員会のメンバーの一部はフォロスへ飛んでゴルバチョフに会おうとしたが、会ってもらえなかった。ロシア側からはルツコイ副大統領らが別の飛行機でフォロスへ向かい、ゴルバチョフを連れ帰った。
8月22日の未明にモスクワへ戻ったゴルバチョフは、自分は別の国に帰ってきた、という趣旨のことを語ったとされる。その言葉どおり、3日のあいだに力の重心は動いていた。22日の夜、KGB本部のあるルビャンカ広場では、秘密警察の創設者ジェルジンスキーの像が、群衆の前でクレーンに吊り上げられて台座から外された。23日、ロシア最高会議に招かれたゴルバチョフの目の前で、エリツィンはロシア共産党の活動を停止する大統領令に署名してみせた。テレビで中継されたこの場面は、どちらが上に立ったかをはっきりと示した。

委員会のメンバーは逮捕された。プーゴ内相は22日、妻とともに自殺した。ゴルバチョフの軍事顧問だったアフロメーエフ元帥も、24日にクレムリンの執務室で命を絶った。同じ24日、ゴルバチョフは党書記長を辞め、党中央委員会に自ら解散するよう求めた。そしてこの日、ウクライナ最高会議が独立を宣言した。9月にはソ連の国家評議会がバルト三国の独立を認め、ほかの共和国も次々に独立を宣言していった。
新連邦条約は、もう誰も署名しなかった。12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの首脳がソ連の消滅を取り決め、25日にゴルバチョフが大統領を辞めた(ソ連の解体)。強硬派はソ連を守ろうとして3日間だけ動き、その失敗がソ連の終わりを4か月早めたことになる。

戦車の上に立ったエリツィンは、民主主義の守り手として新しいロシアの指導者になった。だが2年後の1993年10月、議会と対立したエリツィンは、同じ白い家を戦車で砲撃させた。逮捕された委員会のメンバーは、1994年に議会の恩赦で釈放されている。8月の3日間は、ソ連の終わりの始まりであると同時に、そのあとのロシアがどんな政治を選ぶのかという問いの始まりでもあった。