ザンジュの乱
概要
東アフリカから連れてこられた奴隷が、イラク南部の湿地で塩の混じった表土をはがす労働に使われ、15年反乱した。バスラを落とし、独自の都を建てる。イスラーム世界最大の奴隷反乱になる。
場所
30.51°N 47.78°E · イラク
本文
イラク南部、ティグリス川とユーフラテス川が合わさってペルシア湾に注ぐあたりは、水路と葦の原が入り組んだ広い湿地である。その中心の港町バスラは、アッバース朝の時代、インド洋の交易で栄えていた(ラービアと神への愛)。町の有力者たちは、まわりの荒れ地を畑に変えて富を増やそうとした。土地は塩を含んでいて、そのままでは作物が育たない。表面の塩の固い層を剥がし、下の土を出してやる必要があった。
その重労働に使われたのが、アフリカ東岸から船で連れてこられた奴隷たちだった。アラビア語で東アフリカの人びとを「ザンジュ」と呼ぶ。彼らは数百人、数千人の組にされ、わずかな粉とナツメヤシだけを与えられて、湿地で塩の層を掘り、土を運び続けた。この時代のイスラーム世界で、奴隷の多くは家の召使いや兵士として使われた。これほど大勢を一か所に集めて畑の労働に使うのは、珍しいことだった。

869年、アリー・ブン・ムハンマドという男が、彼らの前に現れた。預言者の娘婿アリーの子孫を名乗り、それ以前にもペルシア湾岸やバスラで人を集めて反乱を企てては失敗していた。彼は奴隷たちに、自由と富と、いずれは自分たちが主人になることを約束した。奴隷たちは次々に作業場を捨てて彼のもとに集まった。近くの遊牧民や、貧しい農民も加わった。
湿地は、反乱軍の味方をした。細い水路と葦の原は、騎兵や大軍が動ける場所ではない。反乱軍は小舟で水路を自在に動き、討伐軍を待ち伏せては破った。湿地の奥には、アル・ムフターラ(選ばれた町)と名づけた都が築かれ、城壁と宮殿が建てられ、独自の貨幣まで作られた。
アッバース朝の側には、反乱を抑える力が無かった。都をバグダードからサーマッラーに移して以来(サーマッラーへの遷都)、宮廷はトルコ人の軍人に握られ、861年には彼らの手でカリフが殺された。その後の10年で、カリフは何人も廃され、殺された。東ではサッファール朝が自立し、868年にはエジプトのトゥールーン朝も事実上離れた(トゥールーン朝の自立)。国の税収は落ち、兵に払う金にも事欠いた。

871年、反乱軍はバスラを落とした。歴史家タバリーの年代記は、住民の虐殺と、大モスクが焼かれた様子を伝えている。犠牲者の数については誇張が疑われる大きな数字も残るが、町が長く立ち直れないほどの打撃を受けたことは確かである。反乱軍はさらに北へ進み、ワーシトなどの町も落とし、一時はバグダードに迫る勢いを見せた。
自由を求めて立ち上がった反乱だったが、反乱軍は奴隷制そのものを否定したわけではなかった。タバリーは、勝った側が捕らえたアラブ人の女性や子どもを奴隷として分け合い、売り買いしていたと記している。立場が入れ替わっただけだ、と見る研究者もいる。もっとも、反乱軍の側の記録は残っておらず、彼らがどう考えていたのかは、敵の書いたものから推し量るしかない。

流れが変わったのは、カリフの弟ムワッファクが、反乱の鎮圧を自ら引き受けてからである。彼は息子のアブル・アッバースとともに水軍を整え、湿地の水路を一つずつ押さえていった。反乱軍の都の対岸には自分の町を築いて腰を据え、降伏した者には罪を問わず、褒美を与えると約束した。寝返る者が相次いだ。
883年、アル・ムフターラは落ち、アリー・ブン・ムハンマドは殺された。その首は槍の先に掲げられ、バグダードに送られた。反乱は14年あまり続いたことになる。ムワッファクの息子は、のちにカリフのムウタディドとなり、揺らいだ王朝をしばらく立て直す。

この反乱は、イスラーム世界で最大の奴隷反乱とされる。その後、イラク南部で大勢の奴隷を集めて畑を開く試みは、二度と大きな規模では行われなかった。一方、この反乱で国の力が削がれたことは、アッバース朝の衰えを早めた。10世紀の半ばには、バグダードは東のブワイフ朝の軍に入られ、カリフは名目だけの存在になっていく(ブワイフ朝のバグダード入城)。