できごと

足尾鉱毒事件

Ashio copper mine pollution
AD1901年12月10日
重要度 4
大英帝国ロシア帝国清イギリス領インド帝国フランス領インドシナラタナコーシン朝(シャム)日本朝鮮王朝フィリピンAD1901年12月10日足尾
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1901年12月10日の版図を描いています(9勢力)。

概要

渡良瀬川の魚が死に、田が枯れ、農民が押し出しに出た。衆議院議員の田中正造が議会で10年訴え、議員を辞めて天皇に直訴した。谷中村は遊水地にされて消えた。日本の公害の最初。

場所

足尾
36.63°N 139.45°E · 栃木県日光市

関わった人(1)

田中正造AD1841年12月15日–AD1913年9月4日 · 直訴

本文

栃木県の西の山あいにある足尾銅山は、江戸時代に開かれ、幕府の御用銅山として栄えたが、幕末にはほとんど掘り尽くされたと見られていた。1877年、この山を買い取ったのが、商人の古河市兵衛である。古河は新しい鉱脈を探り当て、西洋の技術を次々に取り入れた。採掘は飛躍的に伸び、足尾は1880年代のうちに日本一の銅山になる。銅は生糸と並ぶ輸出品で、電線の材料として世界で求められていた。足尾の銅は、明治日本の外貨を稼ぐ柱の一つだった。

その繁栄の陰で、山と川が壊れていった。精錬所の煙に含まれる亜硫酸ガスが周りの山の木を枯らし、坑道の支柱や燃料にするための伐採も重なって、山は丸裸になった。岩くずや精錬のかすは谷に捨てられ、雨のたびに渡良瀬川へ流れ込んだ。1880年代の半ばには、川の魚が大量に死んで浮くようになり、川の漁で暮らしていた人々は生活の糧を失った。

足尾精錬から排出され、足尾砂防ダムと松木川へ向って流れて行く煙(1999年4月15日撮影)
足尾精錬から排出され、足尾砂防ダムと松木川へ向って流れて行く煙(1999年4月15日撮影)Wikimedia Commons Nzrst1jx · CC BY 3.0

被害が一気に広がったのは、川があふれたときである。山に保水の力が無くなったため、渡良瀬川はたびたび大きな洪水を起こした。1890年と1896年の大洪水では、銅を含んだ泥水が下流の栃木・群馬・埼玉・茨城の広い田畑を覆った。泥をかぶった田では稲が育たず、桑も枯れた。人々はこれを「鉱毒」と呼んだ。

この問題を国の場に持ち出したのが、栃木県選出の衆議院議員田中正造である。1891年の議会で初めて足尾の鉱毒を取り上げ、政府に操業の停止を求めた。政府は、古河が被害者と結んだ示談や、鉱毒を防ぐ設備の工事を理由に、根本的な手を打たなかった。銅山を止めれば、輸出も産業も止まる、というのが政府の考えだった。田中はその後も議会で繰り返し政府を追及した。

足尾砂防ダムとその上流の松木川へ向って流れていく煙(1999年4月15日撮影)
足尾砂防ダムとその上流の松木川へ向って流れていく煙(1999年4月15日撮影)Wikimedia Commons Nzrst1jx · CC BY 3.0

被害を受けた農民たちは、自分たちで東京へ訴えに行くことを始めた。大勢で連れ立って上京し、役所に陳情することを「押し出し」と呼んだ。1897年の押し出しのあと、政府は古河に鉱毒の予防工事を命じたが、被害は収まらなかった。1900年2月、数千人の農民が押し出しに向かう途中、群馬県の川俣で待ち構えていた警官隊と衝突し、多くの者が逮捕された。これを川俣事件という。

田中は、議会で訴えるだけでは政府は動かないと考えるようになる。1901年10月に議員を辞め、12月10日、帝国議会の開院式から皇居へ戻る明治天皇の馬車に、直訴状を手に駆け寄った。天皇に直接訴えることは、当時、許されないことだった。田中は警備の者に取り押さえられ、直訴状は天皇の手に届かなかった。その日のうちに釈放され、政府は「狂人のしたこと」として扱ったが、直訴の事件は新聞に大きく報じられた。直訴状の文案は、社会主義者の幸徳秋水が書き、田中が手を入れたものである。事件をきっかけに、学生や知識人、宗教家が現地を訪ね、鉱毒問題は全国の世論を動かす社会問題になった。

1895年頃の足尾鉱山
1895年頃の足尾鉱山Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

しかし政府が選んだ解決は、被害の大もとを止めることではなかった。渡良瀬川の洪水を防ぐという名目で、下流の谷中村を遊水地にして水を溜める計画を立てたのである。村は買収され、多くの村民が去った。田中は谷中村に移り住んで、残った村民とともに抵抗を続けたが、1907年、県は残った家々を強制的に取り壊した。谷中村は地図から消え、その跡はいまの渡良瀬遊水地の一部になっている。田中は1913年、村の人々を気にかけたまま、支援者の家で亡くなった。手元に残っていたのは、聖書や日記などを入れた小さな袋だけだったと伝えられる。

足尾銅山はその後も操業を続け、1973年に閉山した。翌1974年、下流の農民と古河鉱業との間で、被害の補償について調停が成立する。最初の被害から90年近くが経っていた。足尾の山々では、いまも植林による緑の回復が続けられている。

田中正造
田中正造Wikimedia Commons published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) · Public domain

足尾鉱毒事件は、日本の公害の原点と呼ばれる。国の産業を優先して被害を受けた人々を後回しにする構図は、のちの水俣病やイタイイタイ病でも繰り返された。田中正造が日記に記したとされる「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」という言葉は、いまも公害と開発を考えるときにたびたび引かれている。

動画(1)

155 農村と農民・労働問題と社会主義運動 日本史ストーリーノート第15話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第155講「農村と農民・労働問題と社会主義運動」

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