西山の乱

概要
三兄弟の農民反乱が二つの王家を倒し、清の大軍まで撃退した。30年でベトナムを一度まとめたが、内紛で崩れ、阮朝に取って代わられる。
場所
16.46°N 107.59°E · ベトナム
本文
18世紀のベトナムは、名目のうえでは一つの国だった。ハノイ(昇龍)の黎朝の大越の皇帝がいる。だが実権は、北を鄭氏、南を阮氏という二つの一族が握り、ほぼ別々の国として百年以上にらみ合っていた。南の阮氏の政権は、18世紀の半ばには権臣の専横と重税で傾いていた。
1771年、中部のクイニョン近くの西山(タイソン)村で、阮岳(グエン・ニャック)、阮侶(グエン・ルー)、阮恵(グエン・フエ)の三兄弟が兵を挙げた。阮氏の一族ではなく、たまたま同じ姓だった。長兄は税の取り立てに関わっていたともいわれる。富める者から取って貧しい者へ配る、と掲げ、農民と商人、山地の人びと、さらに華人の商人の一団まで集まった。

反乱は思いがけない形で追い風を受ける。1774年、阮氏の混乱を見た北の鄭氏が南へ兵を出し、翌年には阮氏の都フースアン(いまのフエ)を取った。阮氏は南北から挟まれて崩れる。西山軍は1777年、南のザーディン(いまのホーチミン)を落とし、阮氏の一族をほとんど殺した。生き延びたのは、15歳の阮福映(グエン・フック・アイン)だけだった。翌1778年、長兄の阮岳が皇帝を名乗る。
逃れた阮福映は、シャムに助けを求めた。1784年から85年にかけて、シャムの軍と艦隊がメコンのデルタに入る。阮恵はこれをメコンの支流ラックガムで待ち伏せ、川の上で挟み撃ちにして壊滅させた。シャム側の兵の数は記録によって大きく違うが、大敗だったことは両方の記録が認めている。

1786年、阮恵は「黎を扶け、鄭を滅ぼす」を掲げて北へ進み、昇龍に入って鄭氏の支配を終わらせた。黎の皇女を妻に迎え、いったんは黎朝を立てて南へ引き揚げている。ところが後を継いだ若い黎の皇帝は、西山を恐れて清に助けを求めた。1788年の暮れ、乾隆帝は両広総督の孫士毅に大軍を預けて送り、清軍は昇龍を占領した。兵の数は数万から20万まで、史料によって開きがある。
阮恵はフースアンで帝位につき、光中(クアンチュン)と号すると、ただちに北へ急いだ。兵を二交代で休ませながら担いで運び、昼夜兼行で進んだと伝わる。1789年の旧正月、清軍が祝いで気をゆるめた時を狙って攻めかかり、五日目にはドンダの戦いで昇龍を取り戻した。孫士毅は印綬も捨てて川を渡って逃げたという。ベトナム史で最も名高い勝ち戦の一つで、いまもハノイでは旧正月にこの勝利を祝う祭りが開かれる。

勝ったあとの光中帝は、清と戦い続けなかった。すぐに使節を送って朝貢の形をとり、乾隆帝も彼を安南国王として認めた。国内では、漢字ではなくベトナム語を書き表すチュノム(字喃)を公の文書に使わせ、科挙の答案にも用いさせようとしたとされる。中国の文字の下にあった言葉を、国の言葉として扱おうとした試みだった。
その皇帝が1792年に急死した。30代の終わりだった。跡を継いだのは10歳の息子で、宮廷では外戚と将たちが争い、北の弟の政権と中部の兄の政権も互いに不信を募らせた。もともと三兄弟は国を分けて治めており、一つの政府にまとまりきっていなかった。翌年、長兄の阮岳も死ぬ。
その間に、南で阮福映が力を取り戻していた。フランス人の司教ピニョー・ド・ベーヌは、フランス王の援助を取りつけようとし、それが果たせないと自分で義勇の士官と武器を集めて送った。阮福映は西洋式の砦と船を整え、毎年の季節風に合わせて北へ攻め上がった。1801年にフースアン、1802年に昇龍を取り、全土を押さえて嘉隆帝として即位する。これが阮朝の成立になる。嘉隆帝は西山の兄弟の墓を暴き、その報復は徹底していた。
西山朝は30年ほどで消えた。それでも、二百年以上分かれていた北と南の支配を同時に終わらせ、清とシャムという隣の大国を続けて退けたのは、この兄弟だった。阮朝はその土台の上に、いまのベトナムとほぼ同じ南北に長い国を作る。そして阮朝に手を貸したフランスとの関わりが、次の世紀には植民地化への入口になっていく。