できごと

スカンデルベグの抵抗

Skanderbeg's resistance
AD1444年
重要度 3
シベリアの諸集団カルマル同盟白帳ハン国キプチャク汗国青帳ハン国ティムール朝マムルーク朝ノヴゴロド公国ポーランド・リトアニア共和国マリ帝国サーミ神聖ローマ帝国リトアニア大公国ハフス朝ポーランド王国フランス王国English territoryオスマン帝国マクリアカスティーリャ王国カネム=ボルヌハンガリー王国ハドラマウトセルジューク朝モロッコTeutonic Knightsイエメンアラゴン王国マスカットシチリア王国ポルトガルヴェネツィア共和国ポルトガル帝国Bosniaスコットランドワラキア公国Beylik of Aydinブルガール可汗国モルドバ東ローマ帝国AD1444年クルヤ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1444年の版図を描いています(40勢力)。

概要

オスマンに人質として育てられたアルバニアの貴族の子が、ニシュの戦場から逃げてクルヤの城を取り戻し、25年、山でオスマンを退けた。20回以上の包囲。彼が死んで10年で、アルバニアは落ちた。アルバニアの国旗の鷲は、彼の旗から。

場所

クルヤ
41.51°N 19.79°E · アルバニア

本文

15世紀のはじめ、バルカン半島はオスマン帝国の勢いの前にあった。1389年のコソヴォの戦いのあと、セルビアの諸侯はオスマンに従い、アルバニアの山あいの貴族たちも、それぞれの谷と城を守りながら、オスマンとヴェネツィアのあいだで生き残りを図っていた。その一人に、北部の山地を治めるギョン・カストリオティがいた。オスマンに服属した証しとして、ギョンは息子たちを人質に差し出した。そのうちの一人がギェルギ、のちのスカンデルベグである。生まれは1405年ごろとされるが、確かではない。

人質となった少年はスルタンの宮廷で育ち、イスラームに改宗して、宮廷の学校で軍人として鍛えられた。名をイスケンデルと改める。アレクサンドロス大王のトルコ語の呼び名で、それに軍の長を表す「ベグ」がついて、ヨーロッパではスカンデルベグと呼ばれるようになった。彼はスルタンのムラト2世のもとで戦功を重ね、アルバニアの地方を治める役も務めたとされる。若いころの経歴の細部は、後世の伝記に頼るところが多く、はっきりしない。

スカンデルベグの肖像(クリストファノ・デッラルティッシモ画)
スカンデルベグの肖像(クリストファノ・デッラルティッシモ画)Wikimedia Commons Cristofano Dell'Altissimo · Public domain

転機は1443年11月に来た。ハンガリーの将軍フニャディ・ヤーノシュが率いる十字軍がバルカンに攻め込み、セルビアのニシュの近くでオスマン軍を破った。この混乱のさなか、スカンデルベグは甥らとともに300人ほどのアルバニア人の騎兵を連れて戦場を離れた。彼はスルタンの書記を脅してクルヤの城の守将あての命令書を書かせ、それを持って城に入り、城を明け渡させたと伝えられる。アルバニアの中ほどの山の上にある要の城である。彼はキリスト教に戻ると宣言し、赤地に黒い双頭の鷲の旗を掲げた。

1444年3月、スカンデルベグはアドリア海に近いレジャの町に、アルバニアの有力な貴族たちを集めて同盟を結び、その長に選ばれた。互いに争ってきた一族が、初めて一つの旗のもとにまとまったのである。同じ年の6月、トルヴィオルの平原で、彼はオスマンの大軍を待ち伏せで破った。少ない兵で大軍を破ったと伝えられるが、両軍の数は史料によってまちまちである。

それから四半世紀、スカンデルベグは山の地形を味方に戦い続けた。正面からの決戦を避け、狭い谷で待ち伏せし、素早く動く騎兵で敵の補給を断つ。1450年には、ムラト2世が自ら大軍を率いてクルヤを囲んだが、城は持ちこたえ、冬を前にオスマン軍は引き揚げた。ムラト2世は翌年に死ぬ。1453年にコンスタンティノープル陥落を果たしたメフメト2世も、1466年と1467年にクルヤを囲んだが、落とせなかった。

コンスタンティノープル陥落に関わる図版:Siege of Constantinople fresco, Moldovița monastery, Vatra Moldoviței, 2017
コンスタンティノープル陥落Wikimedia Commons DimiTalen · CC0

彼の抵抗は、山の力だけでは続かなかった。南イタリアのナポリの王アルフォンソ5世と結んでその臣下の形をとり、資金と兵の助けを受けた。のちにナポリの王位が争われたときには、恩返しに自ら兵を率いて海を渡り、イタリアで戦っている。ローマ教皇はオスマンに立ち向かう「キリストの戦士」として彼をたたえ、新たな十字軍を企てたが、計画を進めた教皇ピウス2世は1464年に急死し、十字軍は実現しなかった。ヴェネツィアとの関係は、味方になったり敵になったりと、海沿いの町をめぐって揺れ続けた。アルバニアの貴族の中にも、オスマンに寝返る者が出た。

1468年1月17日、スカンデルベグは、ヴェネツィア領のレジャで熱病のために死んだ。マラリアだったとされる。60代の前半だった。彼が死ぬと、抵抗は支えを失った。1478年にクルヤが落ち、翌1479年には北の要地シュコドラもヴェネツィアからオスマンに渡された。多くのアルバニア人がアドリア海を渡って南イタリアやシチリアに移り住んだ。その子孫はアルベレシュと呼ばれ、いまもカラブリアやシチリアの村で、古いアルバニアの言葉と祈りの形を守っている。

スカンデルベグの肖像(1466年)
スカンデルベグの肖像(1466年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

スカンデルベグの名をヨーロッパに広めたのは、1510年ごろにシュコドラ出身の司祭マリン・バルレティがラテン語で書いた伝記である。オスマンを防ぐキリスト教世界の盾として、彼の物語は各国の言葉に訳され、戯曲や詩の題材になった。アントニオ・ヴィヴァルディは1718年に彼を主人公にしたオペラを作っている。ただしバルレティの伝記は、英雄の演説や数字を大きく飾っていると見られており、どこまでが史実かを見分けるのは難しい。ウィーンの美術史美術館には、山羊の頭の飾りをつけた彼のものと伝えられる兜と剣が残っている。

彼の死後、アルバニアは400年あまりオスマンのもとにあり、その間に住民の多くがイスラームに改宗した。1912年、アルバニアが独立を宣言したとき掲げられたのは、赤地に黒い双頭の鷲、スカンデルベグの旗だった。いまの国旗もこれに由来する。首都ティラナの中心にはスカンデルベグ広場があり、騎馬の像が立つ。キリスト教徒の英雄を、ムスリムが多数を占める国民が民族の父として仰ぐ。宗教より先に、アルバニア人であることを結びつけるものとして、彼の名は使われてきた。

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