ルーマニア革命
概要
ティミショアラの牧師の追放から。12月21日、宮殿前の集会でチャウシェスクが演説中に群衆が叫び、テレビが止まった。翌日、屋上からヘリで逃げ、捕まり、25日、クリスマスの日に2時間の裁判で夫婦とも銃殺された。1989年の東欧で、唯一、血で終わった。
場所
44.43°N 26.10°E · ルーマニア
関わった人(1)
ニコラエ・チャウシェスクAD1918年1月26日–AD1989年12月25日 · 銃殺された本文
ルーマニアの共産党を1965年から率いたニコラエ・チャウシェスクは、はじめは西側から好意的に見られた指導者だった。1968年、ソ連などがチェコスロヴァキアに攻め込んだとき(プラハの春)、ワルシャワ条約機構の国でありながら加わらず、首都ブカレストの広場でこれを公然と非難したからである。アメリカの大統領やイギリスの女王も彼を迎えた。だが国の中では、彼の支配はしだいに個人の崇拝と家族の独裁に変わっていった。妻のエレナは党の第二の実力者になり、一族が要職を占めた。秘密警察セクリターテが国じゅうに密告の網を張りめぐらせた。
1980年代、チャウシェスクは外国からの借金を一刻も早く返すことにこだわり、食料や燃料を外国に売って外貨を稼いだ。国の中では、肉もバターも配給になり、冬になっても暖房は弱められ、夜の電気は止められた。テレビの放送は一日に数時間に減らされた。その一方で、ブカレストの古い町並みを取り壊して、巨大な宮殿「人民の館」と、それに続く大通りを造らせていた。子どもを増やすために避妊と中絶が禁じられ、育てられない子どもが施設にあふれた。1989年の秋、ポーランド、ハンガリー、東ドイツ、チェコスロヴァキアで共産党の支配が次々に崩れていっても(ベルリンの壁の崩壊、ビロード革命)、チャウシェスクは11月の党大会で改革を拒み、何も変わらないと言い切った。

火がついたのは、ハンガリーに近い西部の町ティミショアラだった。この町のハンガリー系の改革派教会の牧師テケシュ・ラースローは、政府による少数民族の扱いを外国のテレビで批判し、当局から別の土地への追放を命じられていた。12月15日、彼を連れ去らせまいと、信徒たちが教会と牧師の家を囲んだ。翌16日、ルーマニア人の市民も加わり、集まりは政府に反対するデモに変わった。17日、軍とセクリターテが群衆に発砲した。
当時、西側の報道やうわさでは、ティミショアラで数千人が殺されたと伝えられた。のちの調べで分かった死者は、およそ100人前後である。だが誇張された数字は、怒りをさらにあおった。チャウシェスクは18日、予定どおりイランへの訪問に出かけ、20日に帰国すると、テレビで、騒ぎは外国の手先とならず者のしわざだと演説した。その日、ティミショアラでは労働者たちが工場から出て町を埋め、軍は町から引き上げた。

12月21日の昼、チャウシェスクはブカレストの党本部の前の広場に、工場から10万人ほどを動員して集会を開かせた。ティミショアラの騒ぎを非難し、国民の団結を見せるつもりだった。党本部のバルコニーに立って演説を始めて数分後、広場の後ろのほうから口笛と叫び声が上がり、悲鳴と、爆竹のような音が響いた。チャウシェスクは言葉を失って立ち尽くし、手を挙げて静まるよう求めた。そばのエレナが、話しかけなさい、と促す声が拾われた。国営テレビの生中継は、画面が乱れて途切れた。中継が戻ると、チャウシェスクは賃金と年金を上げると約束したが、広場の空気はもう戻らなかった。独裁者が群衆を前にうろたえる姿を、国じゅうがテレビで見てしまったのである。
その夜、ブカレストの大学広場などに集まった市民に、治安部隊が発砲し、装甲車が人々を押しつぶした。だが翌22日の朝、国防相のミレアが死んだと伝えられた。政府は裏切り者として自殺したと発表した。これをきっかけに、軍は市民に銃を向けるのをやめ、民衆の側に付いた。群衆は党本部へなだれ込んだ。正午過ぎ、チャウシェスク夫妻は党本部の屋上からヘリコプターで逃げ出した。ヘリコプターはまもなく降ろされ、夫妻は車を乗り継いで逃げたが、その日のうちに捕らえられ、ブカレストの北西のトゥルゴヴィシュテの兵営に閉じ込められた。

権力の空白を埋めたのは、テレビ局に集まった人々が名乗った「救国戦線」だった。中心に立ったのは、かつてチャウシェスクに遠ざけられた元共産党の幹部イオン・イリエスクである。ところが、夫妻が捕らえられたあとも、ブカレストやほかの町では激しい銃撃が続いた。チャウシェスクに忠実な「テロリスト」が建物から撃っていると伝えられたが、誰が誰を撃っていたのかは、いまもはっきりしない。混乱のなかで、軍の部隊どうしが撃ち合った例もあった。革命全体の死者はおよそ1100人とされ、その大部分は、チャウシェスクが逃げた22日よりあとに死んでいる。
12月25日、クリスマスの日、トゥルゴヴィシュテの兵営の一室で、夫妻を裁く特別の軍事法廷が開かれた。罪状は、6万人を殺したジェノサイドや国の富を損なったことなどで、その数字はティミショアラのうわさに基づいていた。チャウシェスクは法廷を認めず、大国民議会の前でしか答えないと言い張った。裁判は1時間ほどで終わり、二人には死刑が言い渡された。夫妻は兵営の中庭の壁の前に引き出され、すぐに銃殺された。裁判と遺体の映像はテレビで流された。1989年に東ヨーロッパで共産党の支配が終わった国々のなかで、多くの血が流れ、指導者が処刑されたのはルーマニアだけだった。救国戦線は直後に死刑を廃止した。

その後のルーマニアでは、この12月に何が起きたのかが、長く争われてきた。民衆の蜂起を、党と軍の内部の人々が利用して権力を奪ったのではないか。革命は盗まれたのだ、という声は、1990年の春にイリエスクの政府に抗議した学生たちの合言葉にもなった。イリエスクは1990年の選挙で大統領になり、その後も長く政治の中心にいた。2018年、検察はイリエスクらを、22日以降の多くの死に責任があるとして、人道に対する罪で起訴した。裁判は、いまも決着していない。
党本部の前の広場は「革命広場」と名を変え、そこには白い大理石の塔の先に冠のような形をのせた記念碑が建てられた。その形から、市民は「串に刺したジャガイモ」などとあだ名をつけている。チャウシェスクが一度も住むことのなかった人民の館は、いまは国会の議事堂として使われている。