アッシニア
概要
革命政府は破産していた。教会財産を没収し、それを担保として国債の証券を発行する。売却が進めば回収して焼く、という約束である。やがて利子が外され、法定通貨になった。土地の売却は進まず、戦費が要り、刷り続けるしかない。1795年には額面の一パーセント未満まで下がった。物価の統制と最高価格法が失敗し、パンの行列と暴動が続く。イギリスが偽札を大量に刷って流し込んだことも記録されている。担保があるという設計が、刷る歯止めにならなかった。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
1789年のフランス王国は、破産の瀬戸際にあった。積み上がった借金の利払いだけで、歳入の半分ほどが消えていた。アメリカ独立戦争への援助が、とどめを刺した。税の仕組みも壊れていた。聖職者と貴族は多くの税を免れ、徴税を請け負う者たちが取り立ての途中で利益を抜いた。財政の行き詰まりから、国王は百七十年以上開かれていなかった三部会を招集する。それがフランス革命の直接の引き金になった。
革命が始まっても、借金は消えない。1789年11月2日、国民議会は教会の財産を国のものとすることを決めた。提案したのは、当時オータンの司教だったタレーランである。教会は国土のかなりの部分を持っており、これを売れば借金を返せる。ただ、土地はすぐには売れない。買い手を探し、手続きを踏むには時間がかかる。そこで、売却の代金をあてにした証券を先に出すことにした。
1789年12月19日、最初の発行が決まった。総額は四億リーヴル、年五分の利子が付き、額面は千リーヴルという大きなもので、もともとは投資家向けの国債に近い。この証券は国有化した財産を買うときの支払いに充てることができた。「充てる」を意味するフランス語から、アッシニアと呼ばれる。土地の代金として戻ってきたアッシニアは焼き捨てる約束で、実際に公衆の前で燃やされた。これは増え続けるものではない、という証しである。
だが、約束は少しずつ崩れていった。1790年の春には利子が引き下げられて法定の通貨とされ、受け取りを拒むことが許されなくなった。秋には利子が外され、ただの紙幣になった。額面も小さくなり、千リーヴルから五十リーヴル、五リーヴル、さらには十スーという小銭のような額まで刷られ、日々の買い物に使われるようになった。

そして、刷り続けるしかなくなった。土地の売却は思うように進まず、しかも土地はアッシニアで買えるので、紙幣が戻ってくるだけで新しいお金は入ってこない。1792年からはオーストリアやプロイセン、続いてイギリスとの戦争が始まり、国内では西部のヴァンデで反乱が起きた。戦費は膨らむ一方だった。発行の総額は、1790年ごろの十数億リーヴルから、1793年には数十億、1796年には四百億リーヴルを超えたとされる。値打ちは、1791年には額面の九割ほどを保っていたが、1793年には三割前後、1795年には数パーセントまで落ち、1796年の初めには一パーセントにも満たなくなった。
政府は物価を力で抑えようとした。1793年9月、穀物や肉、油、石鹸、燃料、さらには賃金にまで上限を定める一般最高価格法が制定された。違反すれば厳しく罰せられた。結果は、品物が市場から消えることだった。決められた値段で売れば損をするので、商人も農民も品物を隠した。闇の市場が広がり、パン屋の前には長い行列ができた。買い占めをしたと疑われた者は告発され、群衆に襲われることもあった。農民が都市へ穀物を売らなくなると、政府は軍を送って取り立てた。恐怖政治の時代の統制は、恐怖によって支えられていた。1794年7月のテルミドールの政変でロベスピエールが倒れ、同じ年の12月に最高価格法が廃止されると、抑えつけられていた物価は一気に跳ね上がった。

紙幣の弱さにつけ込んだのは、国内の偽造者だけではなかった。アッシニアは紙も印刷も粗く、まねるのはたやすかった。敵国イギリスでは、偽のアッシニアが組織的に作られ、亡命した貴族たちの手でフランスへ持ち込まれた。その量の推定には幅があるが、行われたこと自体は複数の史料が示している。通貨を偽造して敵の経済を揺さぶるという手口は、のちの戦争でも繰り返されることになる。
1796年2月19日、パリのヴァンドーム広場で、アッシニアを刷るための版と機械が公衆の前で壊され、発行は止まった。代わりに政府は、土地と引き換えられる新しい証券を出したが、同じことがもっと速く起き、数か月のうちに値打ちを失った。1797年、フランスは金貨と銀貨の通貨に戻った。

アッシニアを持っていた人々は、ほとんどすべてを失った。とりわけ打撃を受けたのは、賃金で暮らす都市の人々である。一方で、値打ちの下がったアッシニアで教会の土地を買った人々は、実物の財産を安く手に入れた。紙幣の崩壊は、大規模な富の移し替えでもあった。
1803年、ナポレオン・ボナパルトのもとで、金と銀の含有量を法で定めた新しいフラン、いわゆるジェルミナル・フランが作られた。この金属の重さは、第一次世界大戦が始まる1914年まで百年以上変わらなかった。アッシニアの経験は、フランスの人々の紙幣への不信を長く残したとしばしば言われる。十九世紀のフランスでは、金貨を手元にため込む習慣が根強かった。

担保がある、という設計は、刷りすぎの歯止めにはならなかった。教会の土地にどれだけの値打ちがあるのかは誰にも正確には分からず、その見積もりは、むしろ発行を正当化するために使われた。回収して焼くという仕組みも、売却が進まないうちは働かなかった。そして何より、戦争と飢えという差し迫った必要があった。刷るか、負けるか。その場面で刷らない政府は、ほとんどない。百年あまり後のドイツのハイパーインフレも、同じ問いを別の形で突きつけることになる。