できごと

ベッカリーア『犯罪と刑罰』

On Crimes and Punishments
AD1764年
重要度 5
ベッカリーア『犯罪と刑罰』に関わる図版:Dei delitti e delle pene 1764
Dei delitti e delle pene 1764 Wikimedia Commons Public domain

概要

26歳のミラノの貴族が匿名で出した100ページの本。刑罰の目的は復讐ではなく、犯罪の抑止である。だから、罰は犯罪に比例し、確実で、迅速でなければならない。拷問は無実の弱い者を自白させ、罪ある強い者を放免するので、真実を得る手段として無効である。死刑は、抑止の効果が終身の労役に劣り、国家が殺人を犯すことで暴力を教える。各国語に訳され、エカチェリーナ2世、トスカーナ大公、そしてアメリカの起草者たちが読んだ。

場所

ミラノ
45.46°N 9.19°E · イタリア・ロンバルディア州

関わった人(1)

チェーザレ・ベッカリーアAD1738年3月15日–AD1794年11月28日 · 書いた

本文

1764年、トスカーナの港町リヴォルノで、著者の名の無い小さな本が刷られた。題は『犯罪と刑罰について』。100ページほどの薄い本である。書いたのはミラノの侯爵家の長男チェーザレ・ベッカリーア、26歳だった。ミラノはオーストリアの支配下にあり、検閲を避けるために隣国で、しかも匿名で出す必要があった。

当時のヨーロッパの刑事裁判では、拷問が正式な手続きの一部だった。自白を得るため、共犯者の名を吐かせるために、裁判官の命令で被疑者を責めた。刑罰は見せ物でもあった。車裂き、四つ裂き、火あぶりが公開の広場で行われ、群衆が集まった。罪と罰の重さは釣り合わず、イングランドでは18世紀を通じて死刑を定めた罪が増え続け、200を超えたとされる。同じ罪でも身分によって罰が違い、法の文言はあいまいで、裁判官の裁量が大きかった。

第6版の挿画(ベッカリーア『犯罪と刑罰』)
第6版の挿画(ベッカリーア『犯罪と刑罰』)Wikimedia Commons Beccaria, Cesare · Public domain

ベッカリーアはパヴィア大学で法学を学んだが、学問に熱心な若者ではなかった。父の反対を押し切って結婚し、一時は家から締め出されている。転機は、ピエトロとアレッサンドロのヴェッリ兄弟との交わりだった。彼らは「拳の会」と名のる仲間を作り、フランスやイギリスの啓蒙思想を読み、議論し、雑誌『カフェ』を出していた。アレッサンドロは囚人を保護する役目に就いており、獄の実情を知っていた。題材を与え、書くよう促したのはピエトロで、筆の遅いベッカリーアの原稿を整えたのも自分たちだ、と兄弟は後に語っている。この言い分は、のちに友情が壊れる原因の一つになった。

本の章はどれも短く、法律家の専門書というより、教養ある市民に向けて平明に語りかける文章で書かれている。引用や判例を積み上げるのではなく、原理から一歩ずつ結論を導いていく書き方が、この本を広く読ませた。

『犯罪と刑罰』(1766年)第6版の表紙
『犯罪と刑罰』(1766年)第6版の表紙Wikimedia Commons Cesare Beccaria · Public domain

本の前提は、ルソー『社会契約論』に通じる社会契約の考えと、功利の考えである。人は平穏に暮らすために、自由のごく一部を差し出して国家を作った。だから国家が科してよい罰は、その目的に必要な最小限にとどまる。そこから次々に結論が引き出される。何が犯罪で、どんな罰が科されるかは、あらかじめ法律に書かれていなければならない。罰を定めるのは法律だけであり、刑事の裁判官は立法者ではないから、法を自分の考えで解釈してはならない。この最後の主張は極端で、のちに修正されるが、裁判官の気分で刑が決まる時代への反撃としては筋が通っていた。

罰は犯罪の重さに比例しなければならない。軽い罪と重い罪に同じ罰が待っているなら、人はより重い罪を選ぶ。盗みにも殺人にも死刑が科されるなら、盗人は目撃者を殺したほうが得になる。さらにベッカリーアは、刑罰が効くのは厳しさのためではなく確実さのためだと説いた。逃げ得の望みがある厳罰より、必ず来る穏やかな罰のほうが人を思いとどまらせる。罰は罪の直後に来るほど、罪と罰の結びつきが人の心に刻まれる。

チェーザレ・ベッカリーア(画)エリセオ・サーラ
チェーザレ・ベッカリーアWikimedia Commons Eliseo Sala · Public domain

拷問については、それは真実を確かめる手段ではなく、苦痛に耐える力を試すものだと書いた。頑丈な罪人は耐えて放免され、ひ弱な無実の者が自白して罰せられる。しかも有罪と決まる前の者に罰を科すことになる。死刑についても、彼は正面から否定した。社会契約のどこで、人は自分を殺す権利を他人に譲っただろうか。死刑は一瞬で終わり、見物人はその恐怖をすぐ忘れる。終身の労役のほうが長く人の目に触れ、抑止の力が大きい。そして殺人を罰する法が自ら人を殺せば、人々に殺人を教えることになる。例外として認めたのは、生きているだけで国家の存立を揺るがす者など、ごく狭い場合だけだった。本の終わりで彼は、罰するより予防するほうがよく、その最も確かな手段は教育だと述べている。

反響は大きかった。1766年にはモルレ神父のフランス語訳が出て、ヴォルテールが注釈を書いて広め、続いて英語訳も出た。ロシアのエカチェリーナ2世は1767年、法典編纂の指針として書いた『訓令』に、この本の文章を数多く取り込み、著者をロシアに招こうとしている。トスカーナ大公レオポルドは1786年の刑法典で死刑と拷問を廃止した。近代の国家が法律で死刑を廃した最初の例とされる。大西洋の向こうでは、ジョン・アダムズが1770年のボストン虐殺事件の裁判でイギリス兵の弁護に立ち、ベッカリーアの一節を引いた。トマス・ジェファソンも手控えの帳面に長い抜き書きを残している。

罪刑法定主義と、有罪と決まるまでは罪人として扱わない原則は、1789年の人権宣言の条文に入った。各国で拷問の廃止が進んだのも、この本が出てからの数十年のことである。もちろん反論も出た。ドイツの哲学者カントは晩年の『人倫の形而上学』(1797年)で、人を殺した者は死をもって償うのが正義だとし、社会契約から死刑を否定するベッカリーアの議論を、同情に流された詭弁だと退けた。罰は役に立つから科すのか、それとも罪に値するから科すのか。この対立は、刑罰をめぐる議論の二つの柱として今日まで続いている。

人権宣言に関わる図版:Declaration of the Rights of Man and of the Citizen in 1789
人権宣言Wikimedia Commons Public domain

一方で教会の反発もあった。ヴェネツィアの修道士が危険な書として告発し、ローマ教皇庁は1766年にこの本を禁書目録に載せた。

序文の中でベッカリーアは、法の目的を「最大多数に分け与えられた最大の幸福」と言い表している。のちにイギリスのジェレミー・ベンサムは、功利主義の標語として知られる最大多数の最大幸福という考えを、この本から学んだと認めている。刑罰を感情ではなく、社会にとっての得失で測るという見方は、ベンサムを通じて19世紀の刑法改革と監獄の設計にまで受け継がれていった。

本人は名声に耐えられなかった。1766年、アレッサンドロ・ヴェッリとともにパリへ招かれ、百科全書派の人々に歓迎されたが、人見知りと家恋しさから予定を切り上げて一人で帰ってしまう。この旅でヴェッリ兄弟との仲は決裂した。以後、彼は大きな著作を書かなかった。ミラノのパラティーナ学校で官房学(経済と行政の学)を講じ、アダム・スミスの『国富論』より前に分業の利点を論じたことが知られている。後半生はオーストリア支配下のロンバルディアの役人として、度量衡や通貨の整理に携わった。1792年には刑法改革の委員会に加わり、死刑に反対する意見書を出している。1794年11月28日、ミラノで脳卒中のため世を去った。56歳だった。娘のジュリアはのちに作家アレッサンドロ・マンゾーニを産んでいる。イタリア近代文学を代表する長篇『いいなづけ』の作者は、ベッカリーアの孫にあたる。

罪刑法定主義、罪と罰の釣り合い、無罪の推定、拷問の禁止。いまの刑事裁判の土台にある原則の多くが、26歳の若者の薄い本の中に並んでいる。死刑だけは、いまも結論が出ていない。20世紀の後半から廃止する国が増え、フランスの死刑廃止もその流れの中にあったが、存置する国も少なくない。罰の目的は何か、という彼の問いは、まだ閉じていない。

出典(1)

スティーブン・ピンカー(幾島幸子、塩原通緒 訳) 『暴力の人類史』第4章 人道主義革命

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