ペドロ2世
概要
58年在位し、奴隷制の廃止を進めた。その翌年、軍のクーデターで退位する。
関わったできごと(1)
ブラジルの奴隷制廃止AD1888年5月13日 · 当時の皇帝本文
1825年12月2日、リオデジャネイロで生まれた。父はブラジル皇帝ペドロ1世、母はオーストリアの皇女レオポルディナ。ブラジルはもとポルトガルの植民地で、ナポレオンに追われたポルトガルの王家がリオに移ってきたことから、王子だったペドロ1世が1822年に独立を宣言して皇帝になっていた(ブラジルの独立)。南米で唯一の帝国である。母は彼が1歳のときに亡くなった。

1831年、父は国内の反発を受けて退位し、ポルトガルの王位をめぐる争いのためにヨーロッパへ去った。残された5歳の息子が皇帝になった。幼い皇帝の代わりに摂政たちが国を治めたが、各地で反乱が相次ぎ、国は割れかけた。1840年、議会は皇帝の成年を早めることを決め、14歳のペドロ2世は自ら国を治めることになった。
彼は、学問を何よりも好む皇帝だった。毎朝早くから本を読み、ポルトガル語のほか、フランス語、英語、ドイツ語、ラテン語、さらにはヘブライ語やサンスクリット、先住民のトゥピ語まで学んだ。天文、植物、写真に熱中し、学者や芸術家を援助した。皇帝である自分より、学者になりたかったと周りに語ったという。ヨーロッパを旅したときは、ヴィクトル・ユゴーを訪ね、パスツールの研究室を訪ねている。

1876年、アメリカの独立100周年を祝うフィラデルフィアの博覧会を訪れた。会場の片隅で、若い発明家グラハム・ベルが、自分の発明した電話を見せていた。皇帝は受話器を耳に当て、聞こえてきた声に驚いた、と伝えられる(ベルの電話)。この出会いは電話の評判を大きく高めた。ブラジルは早くから電話を取り入れた国の一つになった。
治世の半ばには、大きな戦争があった。1864年から1870年まで、ブラジルはアルゼンチン、ウルグアイと組んで、パラグアイと戦った(パラグアイ戦争)。戦いは長引き、パラグアイは国の人口の大きな部分を失うほどの打撃を受けた。ブラジルは勝ったが、多くの兵を失い、財政は苦しくなった。そして戦争を通じて、軍は国の中で大きな力を持つようになった。
ブラジルの経済は、奴隷の労働に支えられていた。コーヒーと砂糖の大農園では、アフリカから連れて来られた人々とその子孫が働かされていた。ペドロ2世自身は奴隷制に反対の考えだったが、一気に廃止すれば経済が崩れ、大農園主たちが帝政に背くと考え、段階を踏んで進めた。1850年に奴隷の輸入を止め、1871年には、これから奴隷の母から生まれる子は自由とする法を定めた。1885年には、60歳以上の奴隷を解放する法ができた。
1888年5月13日、皇帝が病気の治療のためヨーロッパに滞在しているあいだに、摂政を務めていた娘のイザベルが、奴隷制を全面的に廃止する法に署名した(ブラジルの奴隷制廃止)。「黄金法」と呼ばれる。南北アメリカで、奴隷制を最後に廃止した国だった。だが、奴隷の持ち主への補償は無かった。財産を失った大農園主たちは、帝政から離れていった。

その1年半後の1889年11月15日、軍の将校たちがクーデターを起こし、共和国を宣言した。共和制を求める運動は以前から広がっており、軍の不満、教会との対立、そして大農園主の離反が重なっていた。皇帝は抵抗しなかった。内戦になって血が流れることを避けたとされる。2日後、皇帝の一家は夜のうちに船でヨーロッパへ送り出された。58年の治世だった。
亡命の暮らしは2年に満たなかった。妻はポルトガルに着いてまもなく亡くなった。ペドロ2世はパリの安ホテルで暮らし、図書館に通って学問を続けた。1891年12月5日、パリで肺炎のため死去した。66歳。枕の中には、故郷から持ってきたブラジルの土が入っていたと伝えられる。フランス政府は、元皇帝のために国葬に準じた葬儀を行った。

追放した共和国も、やがて彼を見直した。1920年、皇帝一家の追放令は解かれ、亡骸はブラジルへ戻されて、避暑地ペトロポリスの大聖堂に葬られている。いまブラジルで、ペドロ2世は国を半世紀以上にわたって安定させ、学問を愛した賢帝として、高く評価されている。奴隷制の廃止が帝政を終わらせたことは、一つの国が大きな正義を果たすときの代償を、示してもいる。