人物

スバス・チャンドラ・ボース

Subhas Chandra Bose
AD1897年1月23日 – AD1945年8月18日(航空機事故とされるが異説が絶えない)(享年48・推定)
インド重要度 4

概要

非暴力では独立できないとして、枢軸国と組んでインド国民軍を率いた。その評価はいまも割れている。

関わったできごと(1)

インドの独立AD1947年8月15日 · 別の道を主張した

本文

1897年1月23日、インド東部オリッサ地方の町カタックに生まれた。父はベンガル出身の成功した弁護士で、14人きょうだいの9番目だった。家は裕福で、英語で教育する学校に通ったが、少年はヒンドゥーの宗教家ヴィヴェーカーナンダの著作に傾倒し、一時は家出して修行者たちのもとを訪ね歩いた。

スバス・チャンドラ・ボースの肖像
スバス・チャンドラ・ボースの肖像Wikimedia Commons Unknown (Netaji Research Bureau, Calcutta) · Public domain

カルカッタの名門カレッジに進んだが、インド人学生を侮辱したイギリス人教授が学生たちに暴行される事件に関わったとして、退学させられた。その後、父の望みでイギリスのケンブリッジ大学に学び、1920年、イギリス領インドの行政を担う高等文官の試験に4番の成績で合格した。インド人にとっては最高の出世の道である。だがボースは翌年、支配する側の官僚にはならないと宣言して、その職を辞退した。

帰国すると、独立運動を率いるインド国民会議に加わり、ベンガルの指導者C・R・ダースのもとで働いた。何度も投獄され、ビルマのマンダレーの監獄にも送られた。1930年にはカルカッタ市長に選ばれている。若く、行動的で、演説の巧みな彼は、とりわけ若者たちの人気を集めた。同世代のジャワハルラール・ネルーと並ぶ、会議派の左派の旗手だった。

ケンブリッジ大学院時代のボース(右から2番目/1920年)
ケンブリッジ大学院時代のボース(右から2番目/1920年)Wikimedia Commons Unknown photographer · Public domain

1938年、ボースは国民会議の議長に選ばれた。だが、指導者ガンディーとの考えの違いは深まっていた。ガンディーは非暴力と忍耐を説き、ボースは、イギリスが戦争などで弱ったときこそ、強い圧力で一気に独立を迫るべきだと考えた。翌1939年の議長選で、ボースはガンディーの推す候補を破って再選された。ガンディーは「彼の敗北は私の敗北だ」と述べ、会議派の幹部たちはボースに協力しなかった。ボースは数か月で議長を辞任し、自分の党派を作った。

同じ1939年、第二次世界大戦が始まった。イギリスは、インドの指導者たちに相談することなく、インドを参戦させた。ボースは、イギリスの敵は自分たちの味方だと考えた。1940年に逮捕され、自宅に軟禁されたが、翌1941年1月、ひげを伸ばしてイスラーム教徒の保険の勧誘員に変装し、夜のうちに家を抜け出した。列車と徒歩でアフガニスタンのカブールへ逃れ、そこからイタリア人の旅券でモスクワを経て、ベルリンにたどり着いた。

オーストリアを訪問したボース(中/1937年)
オーストリアを訪問したボース(中/1937年)Wikimedia Commons Hindustan Times (India) Library (unknown phtographer) · Public domain

ドイツでは、北アフリカで捕虜になったインド兵を集めて部隊を作り、ラジオでインドへ独立を呼びかけた。この頃、彼は「ネタージー(指導者)」と呼ばれるようになる。1942年にはヒトラーと会ったが、ヒトラーはインドの独立に本気で手を貸すつもりはなかった。ボースは、東南アジアへ進んだ日本に望みを託した。

1943年2月、ボースはドイツの潜水艦に乗ってキールを出た。4月、アフリカ南東のマダガスカル沖の海上で、荒波の中、ゴムボートで日本の潜水艦に乗り移った。大戦中、敵の海を抜けて潜水艦から潜水艦へ人を移した、ほかに例の無い移動だった。東京で首相の東条英機と会談し、日本の後ろ盾を取りつけた。

マハトマ・ガンディー(左)とボース(1938年)
マハトマ・ガンディー(左)とボース(1938年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その頃、シンガポール陥落で日本軍の捕虜になった多数のインド兵をもとに、インド国民軍が作られていた。ボースは7月にシンガポールに入ってその指揮を引き継ぎ、10月には自由インド仮政府の樹立を宣言して、イギリスとアメリカに宣戦した。東南アジアに住むインド系の商人や労働者たちは、財産や装身具を差し出し、若者たちは志願して兵士になった。女性だけの連隊も作り、ラーニー・オブ・ジャーンシー連隊と名付けた。19世紀の反乱で戦った王妃にちなむ名である。11月には東京の大東亜会議に、オブザーバーとして出席した。「血を与えよ、そうすれば自由を与えよう」という呼びかけが知られている。

1944年、インド国民軍の一部は、日本軍がインド北東部へ攻め込んだインパール作戦に加わった。インドの地に入ったことは象徴的な意味を持ったが、作戦は補給を欠いた無謀なもので、日本軍とともに飢えと病で壊滅的な損害を出して退いた。翌1945年、ビルマの戦線は崩れ、8月、日本は降伏した。

インパール作戦に関わる図版:Gurkhas advancing with Lee tanks to clear the Japanese from Imphal-Kohima road
インパール作戦Wikimedia Commons British Information Service, information service operated by UK government during WW2. · Public domain

ボースは、今度はソ連を頼ろうとしていたとも言われる。8月18日、彼を乗せた日本の軍用機が、台北の飛行場を飛び立った直後に墜落した。ボースは全身に大やけどを負い、その夜、病院で亡くなったとされる。48歳だった。遺骨は東京に運ばれ、いまも杉並区の蓮光寺に納められている。

だが、インドではその死を信じない人が多かった。事故は偽装で、彼はソ連へ逃れたのだ、あるいは修行者に身をやつしてインドで生きていたのだ、という噂が何十年も消えなかった。インド政府は三度、調査の委員会を設けた。初めの二つは事故死と結論したが、2005年の三度目の委員会は、事故は無かったとする報告を出し、政府がこれを退けるという異例の事態になった。

戦後、イギリスはインド国民軍の将校たちをデリーの赤い城で裁判にかけた。ところが、敵に寝返った者として裁かれるはずの彼らは、インドの人々には祖国のために戦った英雄と映った。裁判への抗議が国中に広がり、1946年にはインド海軍の水兵たちの反乱まで起きた。イギリスがインドの軍隊の忠誠を当てにできなくなったことが、独立を早めたとする見方がある(インドの独立)。

インドの独立に関わる図版:India, by British Information Services, 1944 restored version
インドの独立Wikimedia Commons British Information Services, an agency of the British Government, restoration by Wilfredor · Public domain

ボースはオーストリア人の秘書エミーリエ・シェンクルとひそかに結婚し、娘を一人残した。独立のためなら枢軸国とも組んだ彼を、ファシズムに手を貸した危うい人物と見る人もいれば、ガンディーやネルーと並ぶ独立の英雄と見る人もいる。ベンガルを中心に、インドでは今も彼の誕生日が盛大に祝われている。

動画(1)

林明「2人のインド独立の闘士との日印協力:マハトマ・ガンディーと藤井グルジー、そしてネタジ(スバス・チャンドラ・ボース)とインパール作戦」ーガンジー生誕150周年式典UTokyo Channelガンディーとボース、二人の独立運動家と日本との関わりを語る東京大学の講演
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