ガリバルディの千人隊

概要
赤シャツの義勇兵1089人がジェノヴァから2隻の船でシチリアへ。マルサラに上陸し、カラタフィーミで両シチリア王国軍を破り、パレルモを取り、海峡を渡ってナポリに入った。5か月で王国を倒し、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に「イタリアの王」と呼んで献上して、カプレーラ島に帰った。カヴールは彼を恐れ、使い、退けた。
場所
38.12°N 13.36°E · イタリア・シチリア州
関わった人(3)
ジュゼッペ・ガリバルディAD1807年7月4日–AD1882年6月2日 · 率いたヴィットーリオ・エマヌエーレ2世AD1820年3月14日–AD1878年1月9日 · 受け取ったカヴールAD1810年8月10日–AD1861年6月6日 · 使った本文
1859年、北イタリアのサルデーニャ王国は、ナポレオン3世のフランスと組んでオーストリアと戦い、マジェンタとソルフェリーノで勝って(『ソルフェリーノの思い出』)、ロンバルディアを手に入れた。翌1860年の春、中部のトスカーナ、パルマ、モデナ、そして教皇領の北部ロマーニャが、住民投票でサルデーニャへの合流を決めた。その見返りに、サルデーニャはサヴォイアとニースをフランスに譲った。首相カヴールの外交の成果だった。しかし半島の南半分とシチリア島は、スペイン系ブルボン家の両シチリア王国のまま、ローマとその周りは教皇の国のまま残っていた。カヴールは、南に手を出せばフランスやオーストリアが黙っていないと考え、慎重だった。
ニースの割譲にいちばん怒ったのは、その町に生まれたジュゼッペ・ガリバルディだった。南米で義勇兵を率いて戦い、1848年革命ではローマ共和国の防衛で名を上げた、イタリアで最も人気のある英雄である。1860年4月、シチリアのパレルモで反乱が起き、すぐに鎮圧されたものの、島の各地で火がくすぶっていた。シチリア出身の亡命者クリスピらは、ガリバルディに島へ渡るよう説いた。ガリバルディは迷った末に決断した。

カヴールは遠征を止めも助けもしなかった。義勇兵の集結と武器の調達を見て見ぬふりをし、失敗すれば知らないと言い、成功すれば取り込む構えだった。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はガリバルディに好意的だったとされるが、表には出なかった。武器は、政府が倉庫に押さえた良い銃ではなく、古い銃しか手に入らなかった。
5月5日の夜から6日にかけて、ジェノヴァ近くのクアルトの浜から、2隻の蒸気船が出た。ピエモンテ号とロンバルド号で、海運会社から「奪った」形をとったが、実際には会社の了解があったとされる。乗っていたのは1089人。学生、職人、弁護士、医者、詩人がいた。北イタリアのベルガモの出身者が特に多く、外国人もいくらか加わっていた。女性はクリスピの妻ロザリア一人だった。彼らの多くは、ガリバルディの義勇兵のしるしである赤いシャツを着ていた。

5月11日、船団はシチリア西端のマルサラに入った。港にはたまたまイギリスの軍艦2隻が停泊しており、追ってきた両シチリアの軍艦は、イギリス人の商館や船を巻き込むことを恐れて、しばらく砲撃をためらった。その間に義勇兵は上陸を終えた。ガリバルディはまもなく、ヴィットーリオ・エマヌエーレの名において、シチリアの独裁官を名乗った。
5月15日、カラタフィーミの丘で、千人隊は数でまさる両シチリア軍と戦った。丘の上の段々畑に陣取った敵に向かって、義勇兵は下から突撃を繰り返した。苦戦の中で退却を勧められたガリバルディが、ここでイタリアを作るか、死ぬかだ、と答えたという話が伝わっている。敵は退いた。戦いの規模は大きくなかったが、勝ったという知らせが島中に広がり、土地を求める農民たちがガリバルディのもとに集まり始めた。
5月27日、ガリバルディは山道を回り込んでパレルモに突入した。市民が蜂起し、町中にバリケードが築かれた。両シチリア軍は城と港から市街を砲撃したが、3日間の市街戦のあと休戦に応じ、6月初めには2万人ほどの兵がパレルモから引き揚げた。7月20日、島の東北のミラッツォで再び勝ち、シチリアはほぼ制圧された。そのころには、北から続々と援軍の義勇兵が渡ってきていた。
8月、ガリバルディはメッシーナ海峡を渡って本土のカラブリアに上陸した。カヴールはこれを止めようとしたが、ガリバルディは聞かなかった。両シチリアの軍は、戦わずに崩れていった。9月7日、ガリバルディはわずかな供回りとともに列車でナポリに入り、熱狂的に迎えられた。若い国王フランチェスコ2世は前日、北のガエータの要塞へ退いていた。10月1日から2日にかけて、ナポリの北のヴォルトゥルノ川で、王の軍の最後の大きな反撃が退けられた。上陸からわずか5か月で、両シチリア王国は崩れた。

カヴールが恐れたのは、ガリバルディが勢いのままローマへ進むことだった。ローマにはフランス軍が教皇を守って駐屯しており、手を出せばフランスとの戦争になる。カヴールは先手を打ち、サルデーニャの正規軍を教皇領のマルケとウンブリアに進ませ、9月にカステルフィダルドで教皇軍を破って、ローマを避けて南へ下った。10月21日、南イタリアとシチリアで住民投票が行われ、サルデーニャとの合流が圧倒的な多数で決まった。本土では賛成約130万に対し、反対は1万あまりだった。
10月26日、ガリバルディはナポリの北のテアーノ近くで、南下してきたヴィットーリオ・エマヌエーレを出迎え、イタリアの王として挨拶したと伝えられる。征服した南を、そっくり王に差し出したのである。11月7日、二人は並んでナポリに入った。王は、正規軍への義勇兵の受け入れも、ガリバルディが求めた南の統治の役目も認めなかった。ガリバルディは位も領地も金も断り、種用の豆の袋などわずかな荷物を持って、サルデーニャ島の北の小島カプレーラへ帰った。
1861年3月17日、トリノの議会がイタリア王国の成立を宣言し(イタリア統一)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリアの王になった。カヴールはその3か月後に急死した。ヴェネツィアの併合は1866年、ローマは1870年まで待たなければならなかった。ガリバルディはその間もローマを目指して義勇兵を起こしたが、1862年には王国の軍に撃たれて負傷し、1867年にはフランス軍と教皇軍に敗れている。

千人隊の物語は、統一イタリアの建国神話になった。しかし南の現実は物語ほど明るくなかった。シチリアの農民は土地の分配を期待したが、それは来なかった。1860年8月、島の東部のブロンテで農民が地主や役人を襲うと、ガリバルディの副官ビクシオは軍を送り、首謀者とされた5人を銃殺した。統一の後、南部では徴兵と重税に反発する反乱が「山賊」の名で数年にわたって続き、軍が鎮圧した。北と南の経済の大きな差は、いまも「南部問題」としてイタリアの課題であり続けている。