カシミール紛争の始まり
概要
ヒンドゥーの藩王が治めるムスリム多数の地域だった。分離のとき帰属を決めかね、その隙に紛争になる。三度の戦争を経て、いまも分割線のまま決着していない。
場所
34.08°N 74.80°E · インド・パキスタン・中国が領有を争う
本文
イギリスが治めたインドには、直轄の州のほかに、560を超える藩王国があった。藩王はイギリスの宗主権のもとで自分の領地を治め、1947年の独立のときには、インドとパキスタンのどちらに加わるかを自分で選ぶことになっていた。多くの藩王国は地理と住民の宗教に従って早々に帰属を決めたが、決めなかった国がいくつかあった。その最大のものが、北の端のジャンムー・カシミール藩王国である。
この国は住民の4分の3ほどがムスリムだったが、藩王ハリ・シングはヒンドゥーのドーグラー家の出だった。地理的にはパキスタンとつながる道と川が多く、一方でインド側にも細い道が通じていた。藩王はどちらにも加わらず、独立を保ちたかったとされる。1947年8月15日、インド・パキスタン分離の日を迎えても、カシミールの帰属は決まっていなかった。

分離にともなう宗教ごとの殺し合いは、カシミールの周りにも及んだ。藩王国の西部プーンチではムスリムの住民が藩王の支配に反旗を翻し、10月22日には、パキスタンの北西辺境から武装したパシュトゥーンの部族の兵が国境を越えて首都シュリーナガルへ向かった。パキスタン政府がどこまで関わっていたかは今も争われているが、少なくとも黙認と支援があったと考えられている。
追い詰められた藩王は、インドに助けを求めた。インドの側は、軍を送るにはインドへの帰属が先だとした。10月26日ごろ、藩王はインドへの帰属文書に署名し、翌27日、インド軍が空路でシュリーナガルに降り立った。カシミールで最も大きな政治勢力を率いていたシェイク・アブドゥッラーも、ムスリムでありながらインドの側に立った。インドの首相ジャワハルラール・ネルーは自身がカシミールの家系の出で、この地に強いこだわりを持っていた。

パキスタンの側から見れば、ムスリムが多数を占める地域を、ヒンドゥーの藩王が住民に問わずにインドへ渡したことになる。パキスタンの指導者ムハンマド・アリー・ジンナーは帰属を認めず、やがてパキスタンの正規軍も戦いに加わった。これが第一次の印パ戦争である。
インドは1948年1月、この問題を国際連合に持ち込んだ。安全保障理事会は、パキスタン側の兵の撤退、インド軍の削減、そのうえでの住民投票という順序を決議した。ところが、どちらが先に兵を引くかで双方が譲らず、住民投票は行われなかった。1949年1月1日に停戦が成り、引かれた停戦ラインによって、カシミールはインドが治める側とパキスタンが治める側に分かれた。

その後も戦争は続いた。1965年にはカシミールをめぐって二度目の全面的な戦争が起き、1971年の戦争はバングラデシュの独立をめぐるものだったが、カシミールでも戦闘があった。1972年のシムラ協定で停戦ラインは「管理ライン」と呼び改められ、両国の話し合いで解決することが約束されたが、線はそのまま事実上の国境になった。1999年には管理ラインを越えたパキスタン側の兵とインド軍がカルギルの高地で戦っている。
北東では中国が関わった。インドが自国の領土とするアクサイチンは1950年代から中国が押さえ、1962年の中印国境紛争を経て中国の実効支配が続いている。1963年にはパキスタンが自らの治める地域の一部を中国に譲った。旧藩王国の土地は、いまインド、パキスタン、中国の三か国が分けて治めている。

1989年ごろからは、インドが治める側でインドからの分離を求める武装闘争が広がり、パキスタンからの武装勢力の流入もあって、数万の人が命を落とした。1998年にはインドとパキスタンの核実験が行われ、三つの核保有国が境を接する場所になった。2019年、インド政府は憲法でジャンムー・カシミールに認めていた特別の自治の地位を取り消し、ジャンムー・カシミールとラダックの二つの連邦直轄領に組み替えた。
国連の決議にあった住民投票は、70年以上たっても行われていない。カシミールの人々が自らどこに属したいと考えているのかを問う仕組みは、作られないままである。