『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ

概要
ギボンが1776年に出しはじめた、トラヤヌスからコンスタンティノープル陥落までの1300年。「なぜ滅びたか」を問う型はここで作られた。
この物語について
世界で最も大きく、最も長く続いた帝国の一つは、なぜ崩れたのか。『ローマ帝国衰亡史』(エドワード・ギボン、1776〜1788年、全6巻)は、この問いを初めて、史料にもとづく一つの長い物語として書き切った本である。いまも「なぜ大きなものが滅びるのか」と問うとき、人はギボンの立てた型の上で考えている。

著者のエドワード・ギボンは、1737年にイングランドの裕福な家に生まれた。病弱な少年で、学校よりも本で育った。オックスフォードに入ったが、若くしてカトリックに改宗したことで父に呼び戻され、スイスのローザンヌに送られてプロテスタントに戻された。その地でフランス語とラテン語の古典を深く読んだことが、のちの仕事の土台になった。
本の着想の場面を、ギボンは自伝に書き残している。1764年10月15日、ローマのカピトリヌスの丘の廃墟に座っていると、かつてユピテルの神殿があったところで、裸足の修道士たちが晩の祈りを歌っていた。そのとき、ローマの都の衰えと滅びを書こうという考えが浮かんだ、という。この有名な場面には、後から形を整えた記憶だという指摘もあるが、古代の神殿の跡でキリスト教の祈りが歌われる光景は、本の主題そのものを映している。
第1巻は1776年に出た。アメリカ独立宣言と同じ年である。本はすぐに評判になり、ギボンは議会の議員も務めながら書き続けた。最後の行を書き終えたのは、1787年6月27日の夜、ローザンヌの家の庭の東屋でだった、と自伝にある。残りの巻が出たのは翌年で、こうして全6巻がそろった。『ローマ帝国衰亡史』の刊行である。
本の出発点は、ローマの最盛期に置かれる。トラヤヌスの時代のローマ帝国の最大版図を見渡したあと、ギボンは、ドミティアヌスの死からコンモドゥスの即位までの時代を、人類が最も幸福で繁栄した時代と呼んだ。五人の賢帝が続いた時代で、その最後がマルクス・アウレリウスである。本は、この哲人皇帝が実の息子コンモドゥスに帝位を譲ったところから下り坂が始まると見る。治世の陰ではアントニヌスの疫病が広がっていた。
そこから本は、ゆっくりと坂を下る。カラカラ帝のアントニヌス勅令、皇帝が軍に立てられては殺される三世紀の危機、アウレリアヌスの帝国再統一での立て直し。ディオクレティアヌスは帝国を分けて治め、宮廷の儀礼をペルシアの王のように重々しくした。ギボンはこれを、市民の第一人者だった皇帝が、ひれ伏させる東方の君主に変わった転換として書く。

コンスタンティヌス1世の章で、本は最も激しい論争を呼んだ部分に入る。ミラノ勅令でキリスト教が公認され、コンスタンティノープル遷都で都が東に移る。その前に置かれた第15章と第16章で、ギボンは初期のキリスト教がどのように広がったかを、信仰の側からではなく、人間の側の理由で説明した。殉教者の数は教会の伝えるほど多くなかったのではないか、とも書いた。来世の救いを説く宗教が、市民として国を守る徳を弱めた、という見方もここに出てくる。出版されるとすぐ、聖職者たちから激しい非難が寄せられ、ギボンは反論の文章を書いて応じた。
本はキリスト教の内側の争いも皮肉をこめて描く。ニケーア公会議での教義の争いを、ギボンは言葉のわずかな違いをめぐって帝国が割れた騒ぎとして、冷ややかに書いた。一方で、古い神々を復活させようとしたユリアヌスには同情を隠さない。その短い治世、ユリアヌスの異教復興を描いた章は、本の中でも印象深いものの一つになっている。
ローマの外からの圧力が、それに重なる。ハドリアノポリスの戦いでゴート人が皇帝を敗死させ、テオドシウスのキリスト教の国教化を経て、帝国は東西に分かれた。西ゴートのローマ略奪、アッティラの侵入、ヴァンダルのローマ略奪と続き、西ローマ帝国の滅亡に至る。ギボンはこの全体を見渡して、自分は野蛮と宗教の勝利を描いてきた、という意味の一文を後の章に書いた。蛮族とキリスト教、という二つの理由が、本の結論としていちばんよく知られている。
ただ、本は西の滅亡で終わらない。それが同じテーマの他の本との大きな違いになる。後半の三巻は、東ローマ帝国、つまり東の帝国の千年を書く。ユスティニアヌス1世とテオドラの宮廷、ユスティニアヌスの再征服での西の再征服、そしてローマ法大全でまとめられたローマ法。法を扱った一章は、法律家のあいだで独立して読まれてきた。テオドラについては、宮廷史家プロコピオスの意地の悪い記録をギボンがそのまま楽しげに使っていて、ここは現在の研究からは慎重に読むべきところとされる。
7世紀に入ると、本の視野はアラビア半島に広がる。ヘラクレイオスがペルシアに勝ったすぐあと、ムハンマドの始めた新しい信仰のもとでイスラムの大征服が起き、東ローマはシリアとエジプトを失った。ギボンはムハンマドに一章を充て、当時のヨーロッパとしては公平に近い態度で書こうとした。トゥール・ポワティエ間の戦いの章には、もしこの戦いでフランク人が負けていたら、いまごろオックスフォードの学寮ではコーランの解釈が講じられていたかもしれない、という皮肉な一節がある。この戦いの重みを大きく見すぎた書き方だとして、いまの研究者は慎重に扱っている。

そのあとも帝国は続く。マンジケルトの戦いで小アジアの内陸を失い、第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪では、同じキリスト教徒であるはずの十字軍に都を奪われた。そして1453年のコンスタンティノープル陥落で、本は終点に着く。最後の数章は、中世のローマ市の廃墟に戻り、着想を得た丘の場面と円を閉じるように終わる。
本を書き終えたあと、ギボンはローザンヌで暮らしを続けたが、フランス革命の混乱のなかでイングランドに戻った。長く患っていた腫れの手術のあと体調を崩し、1794年1月、ロンドンで亡くなった。満56歳だった。書きかけの自伝は、友人の手でまとめられて死後に出版され、本の着想や完成の場面はそこから知られている。
本が残したものは、その結論よりも書き方のほうだった。ギボンは本文に、膨大な脚注をつけた。どの史料のどこに何が書かれているかを示し、ときにはその脚注の中で史料の書き手を皮肉った。史料を示して論じ、読み物としても面白い、という歴史の書き方は、この本によって一つの型になった。
結論のほうは、そのままでは受け継がれなかった。キリスト教が帝国を弱めたという見方は、いまの研究者はほとんど採らない。より大きいのは、「衰亡」という枠組みそのものへの問い直しである。20世紀の後半、歴史家ピーター・ブラウンらは、ローマ帝国の後半からその後の数世紀を、衰えた時代ではなく、宗教も社会も新しい形に変わっていった「古代末期」という一つの時代として描き直した。この見方はこの半世紀の主流になったが、それに対しても、物の豊かさや人口が実際に大きく落ちたことを考古学の証拠から示し、衰退はやはり起きたのだと主張する研究が出ている。
この物語は、本の章がどのできごとを扱っているかを、章番号で引けるように並べたものである。本文は写していない。日本語版によって章の題の訳が違うので、ここでは番号だけを書いた。建国から西の滅亡までを、寛容と制度の物語として書いた塩野七生の『ローマ人の物語』と並べると、同じローマが、片方では長く保たれたものとして、もう片方では崩れていくものとして読まれていることが分かる。その本は、この年表に物語物語「『ローマ人の物語』で読むローマ」として並べてある。ギボンが問うたのは、ローマがなぜ滅びたかであると同時に、なぜそれほど長く持ちこたえたのか、でもあった。
動画(2)
この物語が起きた場所
筋(35)
年代順に並べてあります。役どころが書いてあるものは、なぜこの物語に含まれるかを添えました。
- ローマ国紀元前8世紀(伝承ではBC753年) – (続く)第1〜38章ラティウムの一都市から地中海全域を支配する帝国へ。共和政のまま版図を広げ、内戦を経て帝政に移った。
- トラヤヌス人物53年9月18日 – 117年8月8日ダキアとメソポタミアを加え、帝国の版図を最大にした。属州出身の最初の皇帝。
- ローマ帝国の最大版図できごとAD117年第1章。本はここを頂点に置く版図がここで頂点に達した。以後の皇帝は広げるのではなく守る側に回る。ローマ
- マルクス・アウレリウス人物121年4月26日 – 180年3月17日本が最後の幸福な時代とした皇帝五賢帝の最後。北方の戦陣で自らへの覚え書き『自省録』を書いた。
- アントニヌスの疫病できごと165年東方遠征から戻った軍が持ち帰った。天然痘とされる。帝国の人口の1割前後が死に、マルクス・アウレリウスの治世の背景になる。ローマ

- アントニヌス勅令できごとAD212年第6章カラカラが帝国の自由人全員にローマ市民権を与えた。属州民も。「神々に感謝する者を増やすため」と勅令は言い、ディオは「相続税を取るため」と書いた。市民と属州民の区別が消え、「ローマ人」が地中海の人全部の名になった。ローマ

- 三世紀の危機できごと235年第10章50年で20人を超える皇帝が立ち、疫病と内戦と侵入が重なった。帝国は分裂の一歩手前まで行く。
- ディオクレティアヌス人物AD244年頃 – 311年帝国を四人で分けて統治し、三世紀の危機を収めた。自ら退位した数少ない皇帝。
- コンスタンティヌス1世人物AD272年頃 – 337年5月22日キリスト教を公認し、ビザンティウムに新都を築いた。帝国の重心が東へ移る。
- アウレリアヌスの帝国再統一できごとAD274年第11章三つに割れた帝国を、5年でひとつに戻した。パルミラを落とし、ガリアを取り戻し、ローマに城壁を築く。「世界の回復者」と刻まれ、翌年に部下に殺された。ローマ
- ミラノ勅令できごとAD313年第16章。キリスト教を衰退の理由に数えた、いちばん非難された章キリスト教を含むすべての信仰を認めた。300年続いた迫害が終わる。メディオラヌム

- ニケーア公会議できごとAD325年第21章皇帝が招集し、教義の統一が図られた。信仰の内容を国家が決める前例になる。ニカイア

- コンスタンティノープル遷都できごとAD330年第17章帝国の重心が東へ移った。この都はこの後1100年以上続く。コンスタンティノープル
- ユリアヌス人物AD331年 – AD363年6月26日一族を殺されて育った皇族の学者が、皇帝になって古い神々を戻そうとした。2年でペルシアの戦場に死ぬ。「背教者」の名は勝った側が付けた。
- ユリアヌスの異教復興できごとAD361年第23章。本は背教者に同情的キリスト教徒として育てられた皇帝が、即位すると古い神々の祭祀を戻した。2年後にペルシア遠征で死に、以後の皇帝は全員キリスト教徒になる。コンスタンティノープル
- ハドリアノポリスの戦いできごとAD378年8月9日第26章フン人に追われて帝国内に入ったゴート人が、飢えと役人の搾取で反乱し、皇帝の軍を破って皇帝を殺した。帝国は以後、ゴート人を内側に抱えて生きる。ハドリアノポリス(エディルネ)

- キリスト教の国教化できごとAD380年第28章テオドシウス帝がニケーア信条を国家の信仰と定めた。他の祭祀は禁じられていく。
- 東ローマ帝国国AD395年(テオドシウスの死による東西分割) – AD1453年(コンスタンティノープル陥落)第39〜68章。東の帝国まで書き切った西が消えたあとも1000年続いた、ローマの東半分。自分たちはずっとローマ人と名乗っていた。版図は縮みつづけ、最後は城壁の内側だけになる。
- 西ゴートのローマ略奪できごとAD410年8月24日第31章800年ぶりに市が落ちた。滅亡の66年前だが、同時代の人はここで世界が終わったように書いている。ローマ

- アッティラ人物? – AD453年東西のローマから貢納を取り立て、ガリアとイタリアを荒らした。死ぬと帝国は数年で消える。
- ヴァンダルのローマ略奪できごとAD455年第36章海から来て2週間かけて運び出した。「ヴァンダリズム」という言葉はこの一件から作られた。ローマ

- 西ローマ帝国の滅亡できごとAD476年第36章。ここで終わらず、東へ続ける最後の皇帝が退位させられた。古代の終わりの目印として使われるが、当時そう感じた人はいなかった。ラヴェンナ
- ユスティニアヌス1世人物AD482年頃 – AD565年11月14日地中海の旧領を一時取り戻し、ローマ法を集大成した。ハギア・ソフィアを建てる。
- テオドラ人物AD500年頃 – AD548年芸人の娘から皇后になった。ニカの乱で逃げようとした夫を思いとどまらせたと伝わる。
- ユスティニアヌスの再征服できごと533年第41章北アフリカとイタリアを取り戻した。ただし戦費と疫病で国は疲れ、この領土は次の世代で失われる。ラヴェンナ(総督府)
- ローマ法大全できごとAD534年第44章。ローマ法の一章は独立して読まれてきた千年分のローマ法を整理して一つにまとめた。中世以降のヨーロッパ法の土台になる。コンスタンティノープル
- ムハンマド人物AD570年頃 – AD632年第50章。一章を充てたメッカの商人から預言者となり、信仰と政治が一体の共同体を築いた。その死から一世紀で版図はイベリアからインダスに届く。
- ヘラクレイオス人物AD575年頃 – AD641年2月11日ササン朝に勝った直後、イスラム軍に東方の領土を奪われた。公用語をギリシア語に改める。
- イスラムの大征服できごと634年第51章一世紀のうちにイベリアからインダスまで広がった。ササン朝は消え、ビザンツは半分を失う。

- トゥール・ポワティエ間の戦いできごとAD732年第52章。もし負けていたらオックスフォードでコーランが講じられていた、と本は書くフランク軍がイスラム軍の北上を止めた。西ヨーロッパがイスラム圏に入らなかった分岐点とされる。トゥール(位置は特定されていない)

- マンジケルトの戦いできごとAD1071年8月26日第57章セルジューク朝がビザンツ皇帝を捕虜にした。アナトリアがテュルクの土地になりはじめ、十字軍を呼ぶ遠因になる。マンジケルト

- 第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪できごとAD1204年第60章聖地へ向かうはずの十字軍が、同じキリスト教の都を略奪した。ビザンツはこれ以後立ち直れない。コンスタンティノープル
- コンスタンティノープル陥落できごとAD1453年5月29日第68章。本の終点オスマン帝国が1100年続いた東ローマを滅ぼした。中世の終わりの目印として使われる。コンスタンティノープル

- エドワード・ギボン人物AD1737年5月8日 – AD1794年1月16日著者ローマの廃墟で托鉢僧の晩祷を聞いて、衰亡史を書こうと決めたと自伝にある。20年かけて全6巻。史料に脚注を付けて書く歴史の型を作った。
- 『ローマ帝国衰亡史』の刊行できごとAD1776年本そのもの第1巻が出た年は、アメリカ独立宣言と『国富論』の年でもある。1788年に全6巻。ローマが「なぜ滅びたか」を問う型を、以後の全員がこの本から引き継ぐ。ロンドン
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