ヤア・アサンテワー
概要
男たちが黄金の椅子を守らないなら女が戦うと言い、軍を率いた。60代になる。敗れて流刑地で死んだ。
所属
アシャンティ王国関わったできごと(1)
アシャンティ王国AD1701年 · 最後の抵抗を率いた本文
1840年頃、西アフリカの森林地帯、アシャンティ王国の都クマシに近いベセアセの村で生まれた。生年には数年の幅がある。若いころは畑を耕して暮らし、結婚して娘を一人もうけたとされる。
アシャンティは、18世紀の初めにオセイ・トゥトゥ王のもとで諸部族がまとまってできた王国で(アシャンティ王国)、金と奴隷の交易で栄え、いまのガーナの大半を支配した(アシャンティ王国)。王国の結びつきの要が「黄金の椅子」である。伝承では、建国のとき、祭司オコンフォ・アノキエの祈りに応えて天から金の椅子が降り、王の膝の上に止まった。その椅子には国の魂が宿っており、王でさえ座らない。地面にじかに触れさせることもなく、儀式のときには専用の台に置かれる。
アシャンティの社会では、王や首長を選ぶのに、女性が大きな役割を持っていた。母方の血筋で位が受け継がれ、各地の首長の母や姉妹の中から、クイーンマザー(女王母)が立てられる。クイーンマザーは次の首長を推し、首長に助言し、時には叱る立場にあった。アシャンティの、ある地方の女王(クイーンマザー)になる。兄が治めるエジスの地で、その位に就いた。
19世紀を通じて、アシャンティは海岸に拠点を置くイギリスと何度も戦った。1874年にはイギリス軍が都クマシを焼いた。1896年、イギリスは再び兵を送り、戦わずに降った王プレンペ1世を捕らえて、のちにインド洋のセーシェル諸島へ流した。そのとき一緒に流された首長たちの中に、ヤア・アサンテワーの孫で、エジスの首長だった者もいた。王のいない国で、彼女はエジスの政務を担うことになった。
1900年3月、イギリスの総督ホジソンがクマシに乗り込み、首長たちを集めて、黄金の椅子の引き渡しを要求した。「その椅子はどこか。私が座る」と。なぜ今ここで自分が座っていないのか、と総督は言ったと記録されている。椅子を差し出すことは、国の魂を差し出すことに等しかった。
男の首長たちが躊躇した。その夜、首長たちが集まって対応を話し合った席で、彼女が立って言ったと伝わる。もし男たちが戦わないなら、女たちが戦う、と。自分は女だが、戦場で倒れるまで戦う、と言い、男たちの腰巻と自分の衣を取り替えてもいい、と男たちの臆病をなじったとも伝えられる。言葉の細部は語り手によって違うが、彼女がこの場で戦いを主張し、首長たちを動かしたことは、アシャンティの人々の記憶として受け継がれている。
軍を率いた。60歳前後になる。数千人が加わり、イギリス軍を要塞に閉じ込めた。1900年4月から、クマシの砦に立てこもった総督とイギリス兵、その家族を包囲し、周りの道を断った。砦の中では食料が尽き、病が広がった。6月、総督の一行は包囲を突破して逃れたが、砦には少数の守備隊が残った。数か月の包囲の末に、援軍が来て敗れた。7月、海岸から送られたイギリスと西アフリカ各地の兵からなる救援軍がクマシに着き、アシャンティの砦を一つずつ落としていった。戦いはその後も続いたが、翌年の初めまでに抵抗は抑え込まれた。
1901年3月、ヤア・アサンテワーは捕らえられた。セーシェルへ流され、そこで死んだ。1921年10月17日、80歳前後だった。1902年、イギリスはアシャンティを正式に植民地に組み込んだ。
椅子は隠され、渡されなかった。イギリス側は戦いの後も椅子を見つけられなかった。1921年、道路工事の作業員が森の中で偶然これを掘り当て、飾りの一部を剥ぎ取ったが、アシャンティの人々は自分たちの手で彼らを裁き、イギリスはもう椅子を求めないと約束した。1924年には、流されていたプレンペ1世もようやく故国に戻った。いまもクマシにある。
1957年、ガーナはクワメ・エンクルマのもとで、サハラ以南のアフリカの植民地として最初期に独立した(ガーナの独立)。ガーナで、抵抗の象徴として語り継がれている。クマシには彼女の名を冠した女子の中等学校があり、エジスには彼女を記念する博物館が建てられた。女性が国の魂を守るために立ち上がった物語として、ヤア・アサンテワーの名は、アフリカの女性の歴史の中でも特別な位置を占めている。