ナポレオン法典
概要
革命前のフランスには、北の慣習法と南のローマ法、そして地方ごとに数百の法体系があった。ナポレオンは4人の法律家に起草させ、自ら102回の審議のうち57回に出席した。全2281条。法の前の平等、所有権の絶対、契約の自由、宗教から切り離された婚姻。同時に、妻を夫の許可なしには何もできない立場に置いた。征服地とその模倣を通じて、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、中東、そして日本の民法へ広がった。彼は言った。「私の真の栄光は、40の戦勝ではない。永遠に生きるのは、私の民法典である」。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
ナポレオン・ボナパルトAD1769年8月15日–AD1821年5月5日 · 作らせた本文
革命前のフランスに、法がいくつあるのか、正確に答えられる者はいなかった。北部は慣習法の地域で、ゲルマン系の古い慣わしが地方ごとに違う形で行われていた。広く通用する慣習法だけで六十ほど、町や村ごとの慣習まで数えれば三百を超えたとされる。南部は成文法の地域で、ローマ法が基礎になっていた。その上に国王の勅令が重なり、結婚と家族のことは教会法が、土地のことは封建の法が決め、都市ごとの特権や高等法院ごとの判例がさらに積み重なった。この国を旅する者は、馬を替えるのとほとんど同じ回数だけ法律を替えることになる、というヴォルテールの言葉が伝えられている。
フランス革命は、身分や地方による違いをなくし、全国に共通の法を作ることを約束した。1791年の憲法は、王国全体に共通する民法典を作ると定めている。だが革命期の議会は混乱し、政治の対立も激しかった。法律家カンバセレスが1793年から96年にかけて三度草案を出したが、どれも成立しなかった。

1799年11月、ナポレオン・ボナパルトがクーデタで政権を握り、第一統領になった。翌1800年8月、彼は四人の法律家に民法典の起草を命じた。パリの弁護士で、革命裁判ではルイ16世の弁護に立ったトロンシェ。南仏の出身でローマ法に通じたポルタリス。北部の慣習法に詳しいビゴ・ド・プレアムヌー。そしてマルヴィルである。南と北、ローマ法と慣習法の両方を知る者をそろえた人選だった。草案は四か月ほどでまとまった。
草案は国務院で審議された。会議は百回を超え、ナポレオンはそのうち半数あまりに自ら出席して議長を務めた。彼は法律家ではなかったが、議論に割って入り、しばしば結論を決めた。離婚を認めるか、養子をどう扱うか、婚外の子にどこまで権利を与えるか、夫婦の財産をどう分けるか。法律家たちには、専門の言葉で煙に巻かず、普通の人にも分かるように書け、と求めたと伝えられる。

1804年3月21日、「フランス人の民法典」が公布された。全2281条である。1807年には「ナポレオン法典」と名を改められ、王政が戻ると元の名に戻され、第二帝政でまたナポレオンの名が付くというように、政治とともに呼び名は揺れた。
中身の柱はいくつかある。まず、法の前の平等である。生まれの身分による法の違いは消え、貴族の特権も、地方の特権も、同業組合の特権もなくなった。次に、所有権である。第544条は、所有権とは、法令の禁じる使い方をしないかぎり、物を最も絶対的な仕方で使い、収益し、処分する権利である、と定めた。この条文には現実の重みがあった。革命の間に、教会や亡命貴族から取り上げられた土地が国有財産として売りに出され、多くの農民や町の人々がそれを買っていた。所有権を絶対のものと定めることは、その買い取りを後から覆させないという約束でもあった。土地を買った人々は、この法典の最も強い支持者になった。

さらに、契約の自由である。正しく結ばれた合意は、それを結んだ者のあいだで法律の代わりになる。そして、結婚が教会から切り離された。結婚は市役所で行う民事の契約になり、教会の管轄を離れた。条文は短く、原則を述べ、細かいところは裁判官と学者に委ねる。ポルタリスが掲げたこの方針のおかげで、法典は読める文章として書かれた。
一方で、法典は女性を一人前の法の主体として扱わなかった。第213条は、夫は妻を保護し、妻は夫に服従する、と定めた。妻は夫の許しがなければ契約も、訴えも、財産の処分もできない。夫は妻の姦通を理由に離婚を求められたが、妻が夫の姦通を理由にできるのは、夫が愛人を夫婦の家に住まわせた場合に限られた。1810年の刑法典は、夫が家で姦通の現場を押さえて妻とその相手を殺した場合に、刑を軽くすると定めた。父親の権限も強く、言うことを聞かない子を一定期間閉じ込めさせることができた。婚外の子が父親を探して認知を求めることは、原則として禁じられた。革命の時期に一時広がった女性の権利は、ここで大きく後退した。
法典の「平等」が届かない場所もあった。法典の公布に先立つ1802年、ナポレオンは、革命が1794年に廃止した植民地の奴隷制を復活させていた。これに抵抗したサン=ドマングでは独立戦争が続き、1804年にハイチとして独立する(ハイチ革命)。

法典は国境を越えた。まず征服によって、ベルギー、オランダ、ライン川の西岸、イタリアの各地、ワルシャワ公国へ持ち込まれた。ナポレオンが去った後も多くの国がこれを手放さず、ベルギーとルクセンブルクはいまも直系の民法典を使っている。独立したラテンアメリカの国々もこれを手本にし、1855年にアンドレス・ベーヨが起草したチリ民法典は、さらに周りの国々へ広がった。エジプトをはじめ中東の法典にも影響を与え、フランスから買い取られる前にスペインとフランスの領地だったルイジアナ(ルイジアナ買収)は、いまもアメリカで唯一、大陸法の系統の民法典を持つ州である。
日本も例外ではない。明治政府はフランスの法学者ボアソナードを招いてフランス法の流れをくむ民法を作らせ、1890年に公布した。しかし「民法出でて忠孝亡ぶ」と批判される論争が起き、施行は延期された。代わりにドイツ民法の草案を参考に作り直された民法が1898年に施行された(明治民法と家制度)。それでも財産のことを定める部分には、フランス法の影響が多く残っている。
ワーテルローの戦いに敗れて大西洋の孤島セント・ヘレナに流されたナポレオンは、自分の本当の栄光は四十の戦いに勝ったことではない、ワーテルローがその記憶を消すだろう、しかし消えないもの、永遠に生きるのは私の民法典だ、と語ったと伝えられる。フランス民法典はいまも効力を持っている。2016年に契約と債権の部分が大きく改められ、条文の番号は動いたが、所有権の第544条は1804年の文言のまま生きている。