できごと

宝くじと国家財政

Million Lottery
AD1694年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1694年の版図を描いています(22勢力)。

概要

イングランドは、フランスとの戦争の戦費に困っていた。1694年、議会が「百万宝くじ」を可決した。10ポンドの札を10万枚売り、当選者に16年間、年金を払う。外れた者にも元本相当の利子を付けたので、実質は国債である。人々は、返ってこないかもしれない国債は買わないが、当たるかもしれない籤は買う。同じ年、イングランド銀行が設立された。宝くじは、税を課さずに金を集める方法として、各国が使い続けている。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

くじは古い。中国では数字を当てるくじが万里の長城の建設資金になったという話が語られるが、これは後世の伝説の域を出ない。ローマでは、アウグストゥスが宴の客にくじを引かせて品物を与えたと伝えられる。町の事業の資金を集めるくじがはっきり記録に現れるのは、15世紀のフランドルである。

1445年の町の記録に、城壁と砦を築く費用のためにくじを売った話が残り、ブリュージュでも貧しい人々を助けるためのくじが開かれた。16世紀のフィレンツェで行われた数字くじは「ロット」と呼ばれ、この語はやがて多くの言葉に入った。1567年には、イングランドのエリザベス1世が、港の修理と「その他の公共の善のため」のくじを認めている。

為政者にとって、くじほど都合のよい資金集めは無い。税は無理やり取り立てるものだが、くじは人が自分から進んで買う。増税には強い反対が起きるが、くじに反対するのは難しい。17世紀の終わり、この性質が、国家の財政そのものを支える仕組みに組み込まれることになる。

1688年の名誉革命と権利章典で、オランダからウィリアム3世が迎えられ、イングランドの王位に就いた。翌1689年から、イングランドはルイ14世のフランスを相手にした九年戦争に入る。陸軍と海軍を動かすには途方もない金がかかり、税収ではとても足りない。しかも、国王の借金は信用されていなかった。1672年、チャールズ2世が国庫の支払いを止め、王に金を貸していたロンドンの金匠たちが次々に破産した記憶が、まだ生々しかったからである。

名誉革命と権利章典に関わる図版:William of Orange III and his Dutch army land in Brixham, 1688
名誉革命と権利章典Wikimedia Commons Johan Herman Isings · Public domain

1694年、議会は「百万の冒険」と呼ばれるくじを可決した。一枚10ポンドの札を10万枚売り、100万ポンドを集める。当たりは2500本で、一等は16年間、毎年1000ポンドを受け取れる。ここまでは普通のくじだが、この計画には大きな特徴があった。外れた札にも、16年間、毎年1ポンドずつ払われるのである。札の値段の1割にあたる額だ。

つまりこれは、くじの形をした国債だった。全員が元本に対して年1割の利子を受け取り、当たった者はそれに賞金が上乗せされる。返ってくるかどうか怪しい政府への貸し付けには、人はなかなか金を出さない。しかし、大当たりするかもしれないくじなら買う。政府はその心理を使って、借金に客を呼び込んだ。札は目標どおりには売り切れなかったともいわれるが、戦費を集める手段として役目を果たした。

同じ1694年の7月27日には、イングランド銀行の設立も生まれている。商人たちが出資して120万ポンドを政府に貸す代わりに、銀行券を発行する特権を得た。くじと同じく、戦費をどう調達するかという問いへの、もう一つの答えだった。

歴史家たちは、この時期にイングランドで整った一連の仕組みを「財政革命」と呼ぶ。議会が承認する恒久的な税、利子を払い続ける国債、それを引き受けるイングランド銀行、そしてくじ。王一人の意志で借金を踏み倒すことはできず、返済は議会が約束する。だから貸し手は安心して金を出し、金利は下がった。

絶対王政のフランスでは、王が支払いを止めることができたため、貸し手は高い金利を求めた。18世紀を通じて、人口でも経済の規模でもフランスに劣るイギリスが、繰り返し戦争に勝てたのは、安く大量に金を借りる力の差が一因だったとされる。国債への熱が行き過ぎた先には、1720年の南海泡沫事件のような破局もあった。

イギリスでは18世紀を通じて、国のくじが何度も行われた。1753年には、医師ハンス・スローンの膨大な収集品を買い取り、それを収める建物を用意するために、くじで資金が集められた。これが大英博物館の始まりである。しかし弊害も大きかった。

札が高すぎて庶民には買えないので、札を16分の1、64分の1に分けて売る業者が現れた。くじの当たり番号に賭ける闇の賭けが「保険」と称して広まり、貧しい人々が暮らしの金をつぎ込んだ。道徳的な批判が強まり、1826年、イギリスは国のくじをやめた。復活したのは170年近く後の1994年、ジョン・メージャー政権のもとでのことで、収益は芸術、スポーツ、文化遺産、慈善活動に配られている。

アメリカも、くじとともに育った国である。1612年にはヴァージニア会社が、ジェームズタウンの植民地を支える資金をくじで集めた。ハーバード、イェール、プリンストン、コロンビアといった大学も、初期の建物や基金の一部をくじで集めている。大陸会議は独立戦争の戦費にくじを使い、道路や橋や運河の建設にもくじが使われた。ジョージ・ワシントンが署名したくじの札は、いまも収集家の間で取引されている。

19世紀の後半になると、くじは腐敗の温床になった。1868年に始まったルイジアナ州のくじは、全米に札を売って莫大な利益を上げ、州議会に金をばらまいて営業の権利を守った。1890年、営業の延長をめぐる露骨な買収が問題になると、連邦議会は郵便でくじの札を送ることを禁じ、1895年には州をまたいだくじの取引も禁じた。アメリカから合法のくじはほぼ消えた。それが戻ってきたのは1964年、所得税も売上税も無いニューハンプシャー州が、財源に困って州のくじを始めたときである。他の州も次々に続き、いまでは大半の州でくじが売られている。

日本では、江戸時代に寺や神社が建物の修繕費を集めるために富くじを行った。谷中の感応寺、目黒不動の瀧泉寺、湯島天神の富くじは「江戸の三富」と呼ばれてにぎわった。これは1842年、天保の改革のなかで禁じられる。1945年7月には、戦費を集めるために「勝札」という政府のくじが売り出されたが、抽選の前に敗戦を迎え、「負札」と呼ばれた。同じ年の10月には、物価の高騰を抑え、復興の資金を集めるために「宝くじ」が始まった。いまは地方自治体が売り出し、収益の一部が自治体の財源になる。

日本の宝くじでは、売上のうち当選金として買った人に戻るのは5割に満たない。競馬が7割から8割、カジノのルーレットが9割台であるのに比べると、公認された賭けの中で最も戻りが少ない部類に入る。残りの4割ほどは公共事業などに回され、そのほかが経費や手数料になる。年末のジャンボ宝くじの一等が当たる確率は、2000万分の1である。

それでも人はくじを買う。多くの国の調査で、収入の低い人ほど、収入に占めるくじの購入額の割合が高いことが報告され、くじは「貧しい者への税」と呼ばれてきた。しかも、その収益で整えられる公園や文化施設は、しばしば中間層以上がよく使う。行動経済学は、人がごく小さな確率を実際より大きく感じてしまう傾向や、買わなければ当たる見込みは無いという理屈、当たったときを想像する時間そのものの楽しさによって、くじが売れ続ける理由を説明している。

330年前、戦費に困ったイングランドの政府が見つけたのは、人は確実に少し損をする取引でも、わずかな確率で大きく得をする見込みが付いていれば金を出す、という事実だった。その発見は、いまも各国の財政の片隅で使われ続けている。

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