概要
イングランドは、フランスとの戦争の戦費に困っていた。1694年、議会が「百万宝くじ」を可決した。10ポンドの札を10万枚売り、当選者に16年間、年金を払う。外れた者にも元本相当の利子を付けたので、実質は国債である。人々は、返ってこないかもしれない国債は買わないが、当たるかもしれない籤は買う。同じ年、イングランド銀行が設立された。宝くじは、税を課さずに金を集める方法として、各国が使い続けている。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
**くじの古さ**。
- 中国、漢代に「白鴿票」(鳩の札)という数字くじがあった、とされる。(万里の長城の建設資金になった、という話が語られるが、史料の裏づけは弱い。) - ローマ。アウグストゥスが、宴で客に籤を引かせ、賞品を与えた。 - 1445年、フランドルの**ルーヴェン**。町の城壁の修理のために、くじを売った記録がある(現存する最古のまとまった記録の一つ)。 - 1466年、ブリュージュ。貧民救済のため。 - **1530年、フィレンツェ**。「**ロット**」という語が、この地の数字くじに由来する。 - **1567年、イングランド**。エリザベス1世が、港湾の修理と「その他の公共の善のため」に、くじを認可した。
**構造**。
くじは、**税ではない**。
税は、強制される。くじは、**自分から買う**。
だから、政府にとって、これほど都合のよい資金調達はない。
(そして、**議会の同意を得やすい**。増税は反対されるが、くじには反対しにくい。)
**1694年、イングランド**。
**状況**。
- 1688年、**名誉革命**。ウィリアム3世が即位した。 - 1689年から、**九年戦争**(アウクスブルク同盟戦争)。フランスのルイ14世との戦争。 - 陸軍と海軍に、金がかかる。 - 税収では、まったく足りない。 - そして、**国王の信用が低い**。(前の王が借金を踏み倒した記憶がある。1672年、チャールズ2世の「**国庫支払停止**」で、金匠銀行家たちが破産した。)
**「百万宝くじ」**(The Million Adventure)。
議会が可決した(1694年)。
**仕組み**。
- 札の値段——**10ポンド**。 - 発行枚数——**10万枚**。 - 集める額——**100万ポンド**。 - 当選——2500本。1等は年**1000ポンド**を16年間。 - そして——**外れた札にも、16年間、年1ポンド(元本の10%)が払われる**。
つまり、これは**くじではなく、国債である**。
(全員に、元本に対する利子が付く。当選者は、それに上乗せがある。実質的には、年利10%の16年債に、宝くじが抱き合わせになっている。)
**なぜ、こうしたか**。
**人々は、国債を買わない。しかし、くじは買う**。
(政府の借金が返ってくるかは、疑わしい。しかし、「当たるかもしれない」という形にすれば、人は金を出す。)
**売れた**。
(完売には至らず、目標額に届かなかったという記録もあるが、資金は集まった。)
**同じ年**。
**1694年7月27日**、**イングランド銀行**が設立された。
(同じ問題——戦費の調達——への、別の解である。
120万ポンドを政府に貸す代わりに、出資者が銀行券を発行する特権を得た。)
**「財政革命」**。
歴史家は、この時期のイングランドの一連の制度を「**財政革命**」と呼ぶ。
- 議会が承認する**恒久的な税**。 - **国債**(元本を返さず、利子を払い続ける「永久債」を含む)。 - **イングランド銀行**。 - そして、**くじ**。
**帰結**——イングランドは、**フランスより、はるかに安い金利で、はるかに多くの金を借りられるようになった**。
(フランスは、絶対王政である。王が借金を踏み倒せる。だから、貸す側は高い金利を要求する。
イングランドは、議会が返済を約束する。王一人の意志では踏み倒せない。だから、金利が下がる。
18世紀を通じて、イングランド(イギリス)は、人口と経済でフランスに劣りながら、**戦争に勝ち続けた**。金を借りる能力の差が、その一因とされる。)
**その後のくじ**。
**イギリス**。
18世紀を通じて、国家のくじが繰り返し行われた。
(1753年、**大英博物館**の設立資金が、くじで集められた。ハンス・スローンのコレクションを買い取り、収蔵する建物を用意するため。)
しかし、**問題**があった。
- 札が高すぎて、庶民は買えない。だから、**札を分割して売る**業者が現れた(16分の1、64分の1)。 - そして、**闇のくじ**(「保険」と称して、特定の番号が出るかどうかに賭ける)が横行した。 - 貧困層が、生活費をつぎ込んだ。
**1826年**、イギリスは国家のくじを**廃止した**。
(道徳的な批判が高まったため。以後、170年間、国家のくじがなかった。**1994年**、ジョン・メージャー政権が、**ナショナル・ロタリー**を復活させた。収益は、芸術、スポーツ、遺産、慈善に配分される。)
**アメリカ**。
植民地時代から、くじが使われた。
- **ジェームズタウン**(1612年、ヴァージニア会社の資金調達)。 - **ハーバード**、**イェール**、**プリンストン**、**コロンビア**——いずれも、初期の建物と基金を、くじで集めた。 - **独立戦争**の戦費(大陸会議、1776年)。 - 道路、橋、教会、そして**運河**。
(**ジョージ・ワシントン**が、くじの運営に関わっている。彼が署名した札が、収集品として残っている。)
19世紀後半、**腐敗**が問題になった。
**ルイジアナ州宝くじ**(1868〜1893年)。
全米で札を売り、莫大な利益を上げた。そして、州議会を買収していた。
(毎年、州議会に「寄付」をしていた。1890年、営業の延長のために、議員への露骨な買収が発覚した。)
1890年、連邦議会が、**郵便によるくじの札の送付を禁じた**。1895年、州をまたぐ取引を禁じた。
これで、アメリカから、ほぼすべての合法的なくじが消えた。
**復活**——1964年、**ニューハンプシャー州**。
(州の財政難。所得税も売上税もない州だったので、他の財源が必要だった。)
以後、他州が次々に続いた。現在、45州と首都で行われている。
**日本**。
- 江戸期の**富くじ**(富突)。寺社が、修繕の資金を集めるために行った。谷中の感応寺、目黒の瀧泉寺、湯島天神が「江戸の三富」。 - 1842年、**天保の改革**で禁止された。 - **1945年7月**、戦費調達のため「勝札」が発売された(抽選の前に敗戦した。「負札」と呼ばれた)。 - 同年10月、**宝くじ**。インフレの抑制と、復興資金のため。 - 現在、**地方自治体**が発売し、収益が自治体の財源になる。
**数字**。
宝くじの**還元率**(売上のうち、当選金として戻る割合)。
- 日本の宝くじ——**約47%**。 - 競馬——約75%。競輪・競艇——約75%。 - パチンコ——約85%(法律上の規制による)。 - カジノのルーレット——約95〜97%。
(つまり、**宝くじは、公認された賭けの中で、最も還元率が低い**。)
残りは、当せん金の他に、**公共事業への繰入金**(約40%)と、経費と手数料になる。
**批判**。
「**貧者の税**」。
(低所得層ほど、収入に占めるくじの購入額の比率が高い、という調査が、多くの国で報告されている。
そして、その収益が使われる先——公園、文化施設、大学の奨学金——は、しばしば中間層以上が主に享受する。)
**確率**。
日本の年末ジャンボの1等の確率——**2000万分の1**。
(雷に打たれる確率〈生涯で、諸説あるが100万分の1前後〉より、はるかに低い。)
それでも、人は買う。
(行動経済学は、この現象を、極めて小さい確率を過大に評価する人間の傾向〈確率加重関数〉と、そして「**買わなければ、当たる可能性はゼロである**」という論理と、当選を想像する時間そのものの効用によって説明する。)
**そして**。
330年前、イングランドが戦費に困ったとき、政府が発見したこと。
**人は、確実に少し損をする取引でも、小さな確率で大きく得をする可能性が付いていれば、金を出す**。
その発見は、いまも使われている。