ユーグ・カペー
概要
パリ伯の家から、カロリング家の断絶で王に選ばれた。領地はパリとオルレアンの周りだけで、諸侯より弱かった。だが息子を生前に共同王にし、その家が800年続く。カペー、ヴァロワ、ブルボン。
所属
フランス王国関わったできごと(1)
ユーグ・カペーの即位AD987年7月3日 · 王本文
ユーグ・カペーは、940年ごろ、フランク王国の西の部分、のちのフランスとなる西フランク王国で、最も力のある貴族の家に生まれた。父は「大ユーグ」と呼ばれた「フランク人の公」で、母ハトヴィヒは、東フランク、のちのドイツの王ハインリヒ1世の娘であり、皇帝オットー1世の妹だった。つまりユーグは、ドイツの皇帝の甥にあたる。しかも、西フランクのカロリング家の王ロテールの母も、同じオットー1世の妹だったから、ユーグとロテールはいとこどうしでもあった。
カール大帝の帝国は、9世紀に孫たちの間で分けられ(ヴェルダン条約)、西フランクではカール大帝の血を引くカロリング家の王が続いていた。だが、北からのヴァイキングの襲撃(ノルマンディー公国の成立)や、王位をめぐる争いの中で、王の力は衰え、各地の伯や公が自分の土地を自分の力で守るようになっていた。ユーグの家、のちにロベール家と呼ばれる一族は、パリを守ってヴァイキングと戦ったことで名を上げ、9世紀の末と10世紀のはじめに、すでに二人の王を出していた。

956年、父が亡くなり、16歳ほどのユーグが家を継いだ。叔父のオットー1世や、ケルンの大司教だったもう一人の叔父ブルーノが、若いユーグの後ろ盾になった。ユーグは父から「フランク人の公」の称号と、パリやオルレアンの周りの領地を受け継いだ。サン・ドニやサン・ジェルマン・デ・プレ、トゥールのサン・マルタンといった大修道院の長の座も、俗人のまま握っていた。修道院の土地と富が、一族の力の源の一つだった。
ユーグは、いとこの王ロテールと、ときに協力し、ときに対立した。978年、ロテールがドイツの皇帝オットー2世の宮廷のあるアーヘンを急襲し、怒ったオットー2世がパリまで攻め寄せたときには、ユーグがパリを守った。のちにローマ教皇となる学者ジェルベールは、この時代に書いた手紙の中で、ロテールは王の名を持つだけで、ユーグこそ名は無くとも実の王だ、と書いている。

986年にロテールが亡くなり、息子のルイ5世が後を継いだ。だが翌987年5月、若い王は狩りの最中に馬から落ちて亡くなった。子はいなかった。カロリング家の血を引く男は、ルイ5世の叔父にあたるロレーヌの公シャルルが残っていたが、彼はドイツの皇帝の家臣になっていて、西フランクの貴族たちには好まれていなかった。
王を選ぶための貴族と聖職者の集まりが、パリの北の町サンリスで開かれた(ユーグ・カペーの即位)。中心にいたのは、ランスの大司教アダルベロンだった。彼はドイツの皇帝の家とつながりが深く、ロテールとの争いで反逆の罪に問われていたが、ルイ5世の死でその裁きは立ち消えになっていた。年代記作者の伝えるところでは、アダルベロンは集まりで、王の位は血筋で受け継ぐものではなく、生まれの高貴さと知恵と信義にすぐれた者を選ぶべきだと説き、ユーグを推した。こうしてユーグは王に選ばれ、987年の夏に戴冠した。

王になったユーグが真っ先にしたことは、息子のロベールを、自分が生きているうちに共同の王として戴冠させることだった。その年の暮れ、ロベールはオルレアンで王冠を受けた。表向きの理由は、スペインのキリスト教徒の国を助ける遠征に出るので、留守のあいだの王が要る、というものだった。だが本当の狙いは、自分の死後に、王をまた選び直させないことにあったと考えられている。
カロリング家のシャルルは、黙っていなかった。988年、彼は北の要地ランを奪い、ユーグに抵抗した。ユーグは何度もランを囲んだが落とせなかった。決着をつけたのは裏切りだった。991年の春、復活祭の前の日曜日の前夜、シャルルを客として迎えていたランの司教が、眠っているシャルルとその家族を捕らえ、ユーグに引き渡したのである。シャルルはオルレアンの牢に入れられ、そこで亡くなった。カロリング家の王位への望みは、ここで絶えた。

王となっても、ユーグの力は小さかった。王が直接に治める土地は、パリとオルレアンの周りにとどまり、ノルマンディーの公、ブロワやアンジューの伯、南のアキテーヌの公たちのほうが、広い土地と多くの兵を持っていた。南フランスの諸侯の中には、ユーグを王と認めない者もいた。ユーグが、ある伯に、誰がお前を伯にしたのか、と問うと、伯は、では誰があなたを王にしたのか、と言い返したという話が、後の時代の年代記に残っている。作り話かもしれないが、当時の王の立場をよく伝えている。同じころ、教会は、私闘に明け暮れる騎士たちに争いをやめさせようと、神の平和の運動を始めていた。王に、秩序を守る力が無かったからである。
996年10月、ユーグはおよそ56歳で亡くなり、歴代の王が眠るサン・ドニの修道院に葬られた。息子のロベール2世は、すでに9年にわたって父と並ぶ王だったから、選挙は開かれなかった。生きているうちに息子を王にしておくやり方は、その後も200年近く続けられた。王の位は、やがて選ぶものではなく、親から子へ受け継ぐものだと、誰もが考えるようになった。
ユーグの子孫は、男から男へと途切れることなく王位を受け継いだ。14世紀に本家が絶えると、分家のヴァロワ家が、16世紀の末にはさらに分家のブルボン家が後を継いだ。ユーグから数えて800年あまりのちの1793年、フランス革命の中で裁かれたルイ16世は、王の称号を奪われ、「ルイ・カペー」と呼ばれて処刑された(ルイ16世の処刑)。

「カペー」という呼び名の由来ははっきりしない。聖職者の着る短いマントを意味する言葉から来ているとも言われ、トゥールのサン・マルタン修道院の聖人の外套と結びつける説もある。いずれにせよ、ユーグ自身が生きているうちにこう呼ばれた確かな証拠は無く、この名は後の時代に広まったものだ。ユーグは、自分が始めた王朝が、千年先のヨーロッパの王家にまでつながるとは、思いもしなかっただろう。いまのスペインの王家も、その男系をたどればユーグにさかのぼる。