ミフナ(審問)
概要
マームーンが死ぬ4か月前に「クルアーンは被造物である」と法学者に認めさせよと命じた。ムウタジラ派の教義。拒んだイブン・ハンバルは鞭打たれた。15年。ムタワッキルが止めた。カリフが教義を決めることは、それきり二度と受け入れられなかった。
場所
33.32°N 44.37°E · イラク
関わった人(1)
マームーンAD786年9月14日–AD833年8月9日 · 命じた本文
アッバース朝の第7代カリフ、マームーンは、兄アミーンとの内戦に勝って813年に位に就いた。父はハールーン・アッラシードである。マームーンはギリシャの哲学や科学の書物をアラビア語に訳させる事業を盛んにし(バグダードの知恵の館)、自らも学者たちと議論するのを好んだ。彼が近づいたのが、ムウタジラ派と呼ばれる神学者たちだった。
ムウタジラ派は、信仰を理性で説明しようとした。神は唯一であり、神の属性を神と別に永遠に存在するものと考えてはならない。だとすれば、神の言葉であるクルアーンも、神と並んで永遠に存在してきたものではなく、神がある時に作ったもの、つまり「被造物」である、と彼らは説いた。また、神は正しいのだから、人間の悪い行いまで神が定めたとは言えず、人には自分で選ぶ力がある、とも唱えた。これに対して、預言者の言行の伝承(ハディース)を集める学者たちの多くは、クルアーンは神の永遠の言葉であって作られたものではないと信じていた。

833年の春、ビザンツ帝国との戦いのために小アジアの国境地帯にいたマームーンは、バグダードの警察長官イスハーク・イブン・イブラーヒームに書簡を送った。裁判官と学者を呼び出して、クルアーンが作られたものだと認めるかどうかを問いただせ。認めない者は裁判官に任じてはならず、法廷で証人として扱ってもならない。この取り調べは「ミフナ」と呼ばれた。アラビア語で試練、審問を意味する言葉である。
呼び出された学者の多くは、脅されて認めた。最後まで拒んだのは、アフマド・イブン・ハンバルとムハンマド・イブン・ヌーフの二人だった。二人は鎖につながれ、マームーンのいる前線へ送られた。だがその途中、8月にマームーンが病で死ぬ。二人はバグダードへ戻され、イブン・ヌーフは護送の途中で死んだ。マームーンは遺言で、弟で後継ぎのムウタスィムに、この政策を続けるよう求めていた。
イブン・ハンバルは獄につながれたまま、新しいカリフの前に引き出された。ムウタジラ派の学者たちと何日も論争させられたが、彼はクルアーンか預言者の伝承に書かれていることを示せ、それなら従う、と言い続けた。理屈を積み上げる議論そのものを拒んだのである。ついに鞭打ちが命じられ、彼は気を失うまで打たれたと伝えられる。その後、釈放されたが、次のカリフ、ワースィクの時代にも審問は続いた。846年には、教義を拒んだバグダードの名士アフマド・イブン・ナスルが処刑されている。イブン・ハンバルは人前で教えることを控え、家に引きこもって暮らした。
847年に即位したムタワッキルは、数年のうちにこの政策をやめさせた。ムウタジラ派の学者たちは宮廷から遠ざけられ、クルアーンは作られたものではないという考えが、正統の教えとして広まっていく。拷問に屈しなかったイブン・ハンバルは、民衆の英雄になった。855年に彼がバグダードで死ぬと、葬儀には途方もない数の人が集まったと伝えられる。伝えられる数字は数十万人にのぼるが、誇張とされる。
ミフナは、歴史家たちから、カリフと学者のどちらが信仰の中身を決めるのかをめぐる争いだったと見られている。カリフは国家の力で教義を押しつけようとして、失敗した。この後、カリフが自分の考えで教義を定めることは二度と受け入れられず、何が正しい教えかを決めるのは、法と伝承を学んだ学者たち(ウラマー)だという形が固まっていく。カリフは信仰を守る役目にとどまり、10世紀には政治の実権も失っていく(ブワイフ朝のバグダード入城)。ムウタジラ派の理性の神学は、10世紀にアシュアリーが理性の議論を使って伝統の側の教えを守る神学を築くと、主流から退いていった。
イブン・ハンバルの名は、スンナ派の四つの法学派の一つ、ハンバル派に残った。伝承に厳格なこの学派からは、14世紀のイブン・タイミーヤ、18世紀のアラビア半島でイスラームの浄化を唱えたムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブが出た。その教えは、のちのサウジアラビアの国の土台になる。理性を掲げたカリフが鞭で押しつけようとした教義は退けられ、鞭打たれた学者の学派が、千年後に一つの国を支えることになった。