神明裁判の終わり
概要
被告に熱した鉄を握らせ、傷の治り方で有罪を決める。水に沈めて浮けば有罪。決闘で決める。中世ヨーロッパの裁判は、神が正しい者を守るという前提で成り立っていた。1215年の第4ラテラノ公会議が、聖職者がこの儀式に立ち会うことを禁じた。神の保証が消えた。代わりに、人が事実を認定しなければならなくなる。イングランドは陪審へ、大陸は職権による審理と自白の重視、そして拷問へ向かった。同じ年、マグナ・カルタが署名されている。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
中世ヨーロッパの裁判で、証人も証拠も足りず、白黒がつかないとき、人々は神に尋ねた。神明裁判である。いくつもの型があった。赤く焼いた鉄の棒を握って決められた歩数を歩き、手を包帯で巻いて3日後に開く。傷が膿んでいれば有罪、きれいに治りかけていれば無罪。煮え立つ湯の釜に手を入れ、底の石や指輪を拾い上げ、同じように傷の経過を見る。手足を縛って水に投げ込み、沈めば無罪、浮けば有罪とする。清らかな水は罪ある者を受け入れない、という理屈である。両者、あるいはその代理人が戦う決闘もまた、神が正しい者に勝利を与えるという考えに立つ裁きだった。
これは単なる迷信ではなく、教会の儀式に組み込まれた制度だった。試練の前に被告は3日間断食して祈り、ミサにあずかり、宣誓する。司祭が水や鉄を祝別し、試練に立ち会う。司祭がいなければ、神明裁判は成り立たない。神の判定であることを保証するのは、聖職者の祈りだった。

なぜこのような裁きが何百年も続いたのか。近年、経済学者ピーター・リーソンらは、信仰の強い社会では、この制度が真実を引き出す装置として働いた可能性を指摘している。無実の者は神が守ってくれると信じて進んで試練を受け、罪のある者は試練の前に自白するか、相手と和解するか、逃げる。そのうえで、司祭は湯の温度や傷の見方に裁量を持っていた。13世紀初めのハンガリーのヴァーラドの教会に残る記録では、熱鉄の試練を受けた者のうち、無罪とされた者のほうが多かった。神明裁判は、神の裁きの形をとった、共同体の調停の仕組みでもあった。
一方で、教会の内部からは早くから疑問の声が上がっていた。人が神に奇跡を要求するのは、神を試すことではないのか。聖書は「神を試みてはならない」と言う。また、血を流す裁きに聖職者が関わるべきではないという批判も、12世紀を通じて強まっていた。ボローニャを中心に学ばれるようになった教会法の学者たちも、神明裁判には聖書の根拠が無いと論じた。

1215年11月、教皇インノケンティウス3世がローマのラテラノ宮殿に公会議を招集した。第4ラテラノ公会議である。400人を超える司教と800人を超える修道院長らが集まった、中世で最大級の公会議だった。この会議は、聖体のパンとぶどう酒がキリストの体と血に変わるという教えの確認、信徒に年1回の告解と聖体拝領を義務づける規定、ユダヤ人とムスリムに見分けのつく服装を課す規定など、70か条ほどの決議を出した。その第18条が、聖職者が熱鉄や熱湯、冷水による試練に祝福を与えることを禁じた。
条文は数行にすぎなかったが、効果はすぐに表れた。司祭が立ち会わなければ、神の保証は消える。神明裁判はその後の数年から数十年のうちに、ヨーロッパの多くの地域で姿を消していった。ただし決闘による裁きはこの禁止の対象外で、イングランドでは法の上で19世紀まで残った。

神が裁かないなら、誰が事実を決めるのか。この空白への答えは、地域によって大きく分かれた。
イングランドでは、1219年、幼い国王ヘンリー3世の政府が巡回裁判官たちに、神明裁判はもう使えないので、重罪の被告は当面、拘禁するか、国外に追放するか、保証人を立てさせよと指示した。やがて、すでにある仕組みが新しい役目を負う。1166年のクラレンドン巡回裁判令以来、地域の12人が疑わしい者を告発してきた陪審である。告発の陪審が、有罪か無罪かを答える役も担うようになった。

初めのうち、陪審による裁判は被告の同意を必要とした。同意を拒む者には、体の上に重い石を積んでいく「強く厳しい罰」が加えられた。有罪となれば財産が国王に没収されるため、家族に財産を残そうと、裁判を拒んで圧死を選ぶ者もいた。この処置がイングランドで廃止されたのは1772年である。
大陸ヨーロッパは別の道を進んだ。ボローニャ大学の創立を中心に復活したローマ法を手がかりに、裁判官が自ら証拠を集めて審理する糺問の手続きが広まる。そこでは、誤った有罪を防ぐために、証拠の基準が厳しく定められた。死刑にできるのは、信頼できる2人の目撃証人がいるときか、本人の自白があるときだけである。状況証拠はどれほど積み重なっても「半分の証拠」にしかならない。
そのため、目撃者のいない事件で有罪にするには、自白が欠かせなくなった。こうして拷問が裁判の手続きの中に組み込まれる。すでに半分の証拠がある場合に限る、裁判官が立ち会い、記録を取る、拷問の場で得た自白は後日拷問の外で本人が認め直さなければ無効とする、といった規則も作られた。しかし、認め直しを拒めば再び拷問にかけられることもあった。1252年には教皇インノケンティウス4世が、異端審問での拷問の使用を認めている。
神明裁判の廃止は、迷信からの前進として語られる。それは間違っていない。しかしその直接の結果として、大陸の多くの国では、拷問がおよそ500年にわたって司法の一部になった。拷問がなくなるのは18世紀、ベッカリーア『犯罪と刑罰』などの批判を経て、裁判官が状況証拠から心証を形づくって判断してよいという考えが広まり、自白が絶対の条件ではなくなってからである(拷問の廃止)。

1215年にはもう一つの出来事がある。同じ年の6月、イングランド王ジョンはテムズ河畔のラニミードで、諸侯の求めに応じてマグナ・カルタを認めた。その第39条は、いかなる自由人も、同輩の合法的な裁判か国の法によるのでなければ、逮捕も投獄も追放もされないと定めている。神が裁くことをやめ、人が裁かなければならなくなったまさにその年に、人による裁きの条件が書き記された。