グリーンバック
概要
南北戦争の戦費で、北部の銀行が正貨の支払いを止めた。議会は法定通貨法を通し、金と交換できない紙幣を発行する。裏面が緑のインクで刷られたので、そう呼ばれた。合衆国の政府が自ら発行した、最初の全国共通の紙幣である。総額約四億五千万ドル。金貨に対して値が下がり、一時は四割ほどまで落ちた。戦後、金への復帰をめぐって二十年争われる。農民と債務者は増発を求め、債権者と東部の金融は緊縮を求めた。通貨の量が、政治の争点になった。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
本文
1861年12月、南北戦争が始まって8か月が過ぎたころ、北部の銀行は預金や銀行券を金貨・銀貨で払い戻すのをやめた。戦争の先行きへの不安から、預金者が一斉に引き出しに来たのである。同じ月には、北軍の艦がイギリス船から南部連合の使節を連れ去ったトレント号事件でイギリスとの関係が険しくなり、戦争が海の向こうまで広がるかもしれないという恐れも重なった。財務省も続いて正貨での支払いを止めた。
戦費は桁違いに膨らんでいた。開戦の年の連邦政府の歳出は約6700万ドルだったが、終戦の1865年には約13億ドルに達する。20倍近い。財務長官サーモン・P・チェイスの前には、税を取る、借りる、紙幣を刷る、という三つの道しかなかった。

税では、合衆国で初めての所得税が1861年に定められた。戦後にいったん廃止され、1913年の憲法修正第16条で復活することになる。借金では、銀行家ジェイ・クックが国債を新聞広告と代理人の網を使って一般の人々へ直接売り歩いた。「愛国的な投資」をうたったこの売り方は、アメリカで大衆が証券を買う時代の始まりとされる。それでも足りなかった。
1862年2月25日、議会は法定通貨法を通した。財務省が「合衆国紙幣」を発行し、それを公私のあらゆる債務の支払いに通用する法定通貨とする。紙幣は金とは交換できない。発行額は当初1億5000万ドルで、その後の追加で総額は約4億5000万ドルになった。連邦政府が自ら発行した、全国で通用する最初の紙幣である。

ただし例外が二つあった。輸入品の関税は金で納めなければならず、国債の利子は金で支払われた。国債を買ってもらうための約束だったが、裏を返せば、政府は自分の出した紙幣を一部では受け取らなかったことになる。それが紙幣の信用に影を落とした。
裏面が緑のインクで刷られていたので、人々はこの紙幣を「グリーンバック」と呼んだ。なぜ緑なのかについては、当時の写真では緑が黒く潰れて写り、写真を使った偽造を防げたからだという説明がよく知られる。色が褪せにくかったことも理由に挙げられる。

金と交換できない紙幣は、金貨に対して値を下げた。ニューヨークには金を売買する取引所が立ち、金の相場が毎日公示された。グリーンバックの値は戦況に合わせて上下し、北軍が敗れれば下がり、勝てば戻った。最も低かったのは1864年の夏で、金貨1ドルに対して35セントほどまで落ちた。その後、北軍の勝ちが見えると値を戻していく。戦場の知らせが、その日のうちに相場の数字になって現れたのである。エイブラハム・リンカーンは、戦況の悪化に賭けて金を買う投機筋をひどく嫌ったと伝えられる。
南部と比べると、違いがはっきりする。南部連合も紙幣を刷り、その額は十数億ドルにのぼった。だが州の権利を掲げて生まれた政府は中央で税を取りにくく、頼みの綿花の輸出は北軍の海上封鎖で止まった。南部の物価は戦争の4年で90倍前後に上がり、1865年には南部の紙幣は額面の1パーセントにも満たなくなって、敗戦とともに紙くずになった。北部の紙幣が三割から六割の下落で踏みとどまったことは、戦争を続ける力の差として、しばしば論じられる。

紙幣の正しさは裁判所でも争われた。1870年のヘップバーン対グリズウォルド事件で、最高裁は法定通貨法を、法の成立より前に結ばれた契約の債務に当てはめるのは違憲だとした。判決を書いた首席判事は、かつて財務長官として当の紙幣を発行したチェイス本人だった。ところが翌年、ユリシーズ・グラント大統領が新たに2人の判事を任命すると、1871年の法定通貨事件(ノックス対リー事件など)で判断は覆り、合憲とされた。判事の任命で判決をひっくり返したこの経緯は、のちに裁判所の「詰め込み」の早い例として繰り返し語られる。1884年のジュリアード対グリーンマン事件では、戦時でなくても議会は法定通貨を発行できるとされた。
戦後、合衆国は紙幣を金に戻すべきかどうかで、20年近く争った。東部の金融業者や債権者は、約束どおり正貨で払い戻せるようにし、出回る通貨を絞るべきだと主張した。西部や南部の農民、借金を抱える人々、一部の製造業者は反対した。通貨を絞れば物価が下がり、作物の値が落ちて、借金の重さが実質で増すからである。1870年代半ばには紙幣の増発を求めるグリーンバック党が生まれ、その流れは後の銀貨の自由鋳造運動へつながる。1896年、民主党のウィリアム・ジェニングス・ブライアンは、人類を金の十字架にかけてはならない、と演説した。

金への復帰は、1875年の正貨支払再開法で決まり、1879年1月1日に実行された。すると、紙幣を金に換えに来る人はほとんどいなかった。いつでも換えられると分かったとたん、換える必要がなくなったのである。合衆国紙幣はその後も刷られ続け、新たな発行が止まったのは1971年で、いまも法的には通用する。
南北戦争の紙幣は、金の裏づけのない紙を国家が通貨として押し通せるか、という問いに、アメリカが法の形で答えた最初の例だった。通貨の量を誰のためにどう決めるのかは、それ以後、農民と銀行家の対立として、そして選挙の争点として、合衆国の政治の真ん中に居座ることになる。1971年の金とドルの交換停止で金とドルの交換が止まったあと、世界の通貨はみな、グリーンバックと同じく金と結びつかない紙になっている。