トマス・ベケットの殺害

概要
王が「誰かこの厄介な司祭を片づけてくれぬのか」と漏らし、四人の騎士が大聖堂で大司教を斬った。王は裸足で墓に詣でて鞭を受けた。墓はチョーサーの巡礼の目的地になる。
場所
51.28°N 1.08°E · イングランド
関わった人(2)
トマス・ベケットAD1119年頃–AD1170年12月29日 · 殺された大司教ヘンリー2世AD1133年3月5日–AD1189年7月6日 · 王本文
トマス・ベケットは、1120年ごろ、ロンドンの商人の家に生まれた(トマス・ベケット)。パリで学び、カンタベリー大司教の秘書として頭角を現した。1154年に若いヘンリー2世が王位につくと、大司教の推薦で国の文書と印璽を預かる大法官に取り立てられた。王より十数歳年上のトマスは、王の親友になった。狩りをともにし、ぜいたくな服を着て、外交の使節として華やかな行列を仕立てた。
ヘンリー2世は、母方からイングランドを、父方からフランス西部のアンジューを受け継ぎ、妃エレノア・オブ・アキテーヌの領地アキテーヌも合わせて、スコットランドの境からピレネー山脈まで広がる領土を治めていた。王権を強め、法と裁判を整えようとした王にとって、厄介だったのが教会である。罪を犯した聖職者は、王の裁判所ではなく教会の裁判所で裁かれ、軽い罰ですまされた。1162年、王はトマスをカンタベリー大司教に据えた。親友を教会の頂点に置けば、教会を王の側に引き寄せられると考えたのである。

トマスは、大司教になると人が変わった。大法官を辞め、ぜいたくをやめ、衣の下に粗い毛の肌着を着て、教会の権利の守り手になった。1164年、王はクラレンドンで、王と教会の関係を定めた取り決めを示し、罪を犯した聖職者を王の裁判所で罰することなどを認めさせようとした。トマスは一度は口頭で受け入れながら、のちにこれを拒んだ。追いつめられた彼は、変装してフランスへ逃れた。
亡命は6年に及んだ。教皇とフランス王が仲立ちし、1170年、王とトマスはようやく和解した。だがその直前、王は息子の若ヘンリーを共同の王として戴冠させており、その儀式をヨーク大司教らに執り行わせていた。戴冠は、昔からカンタベリー大司教の権利である。トマスは帰国に先立って、儀式に関わった司教たちを破門した。12月1日、彼はイングランドに戻った。

破門された司教たちは、ノルマンディーにいた王のもとへ訴えに行った。クリスマスを前に、王は激怒して叫んだという。自分が養い、引き立ててきた者たちは、主君が卑しい生まれの坊主にこんな侮辱を受けているのを、黙って見ているのか。後世には「誰かこの厄介な司祭を片づけてくれる者はいないのか」という形で知られるが、言い回しは伝える記録によって違う。その場にいた4人の騎士が、ひそかに海を渡った。
12月29日、4人はカンタベリーに着き、大司教と言い争ったのち、いったん外へ出て武装した。夕方、大聖堂で祈りの時刻の鐘が鳴るころ、彼らは剣を手に堂内へ踏みこんだ。修道士たちが扉にかんぬきをかけようとすると、トマスは、教会を城にしてはならないと言って、扉を開けさせた。北の袖廊で、騎士たちは大司教に斬りかかった。最後の一撃で頭蓋が割られ、脳が床に散ったと、その場で腕に傷を負った修道士エドワード・グリムが書き残している。

大聖堂の中で大司教が殺されたという知らせは、ヨーロッパ中を震え上がらせた。墓では奇跡が起きたという話がたちまち広まり、わずか2年あまり後の1173年、トマスは教皇によって聖人に列せられた。ヘンリー2世は、殺害を命じたわけではないと言い続けたが、教皇の求めに応じて、聖職者の裁判について譲歩した。
1174年、息子たちの反乱とスコットランド王の侵入に苦しんでいた王は、カンタベリーへ贖罪の巡礼に出た。町の手前で粗末な衣に着替えて裸足になり、トマスの墓の前で、司教と修道士たちから鞭を受けた。その翌日、スコットランド王が捕らえられたという知らせが届き、人びとは聖人の許しのしるしと受け取ったという。
カンタベリーの墓は、イングランドで最大の巡礼地になった。14世紀の末にジェフリー・チョーサーが書いた『カンタベリー物語』は、ロンドンからこの墓へ向かう巡礼者たちが、道中に語り合う物語の集まりである。

1538年、ヘンリー8世は、修道院を解散し教会を王のもとに置く改革のなかで、豪華な墓を壊させ、宝石や金を没収した。トマスは王に逆らった裏切り者とされ、暦や祈祷書からその名を消すよう命じられた。骨の行方は分かっていない。王と教会のどちらが上に立つのかという、トマスが命をかけた問いに、370年近くのちのもう一人のヘンリーは、力ずくで答えを出したのである。