穀物法の廃止

概要
1815年から、外国の安い穀物に関税をかけて、地主の穀物の値段を守っていた。工場主は「パンが高いから賃金が高い」と言い、コブデンとブライトの反穀物法同盟が7年運動した。アイルランドの飢饉。保守党の首相ピールが自分の党を割って廃止した。自由貿易。イギリスは食糧を輸入し、工業製品を輸出する国になった。ピールは4日後に辞めた。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ロバート・ピールAD1788年2月5日–AD1850年7月2日 · 党を割った本文
1815年、ナポレオン戦争が終わろうとしていた。戦争の間、大陸からの穀物の輸入が細り、イギリスの小麦の値段は高く保たれ、地主は豊かになった。平和が戻れば、大陸の安い穀物が流れ込んでくる。議会は、その前に手を打った。国内の小麦の値段が1クォーターあたり80シリングを超えない限り、外国の小麦の輸入を禁じる。これが穀物法である。当時の議会は地主が多数を占めており、地主が自分たちの穀物の値段を守る法律だった。
穀物法には、成立のときから強い反発があった。1828年には、国内の値段に応じて関税が上下する仕組みに改められたが、パンの値段を高く保つという本質は変わらなかった。工業化が進むにつれ、反対の声は大きくなる。工場主たちは、パンが高ければ労働者に高い賃金を払わねばならず、外国の国々もイギリスに穀物を売れなければ、イギリスの工業製品を買うお金を持てない、と主張した。労働者にとっては、パンの値段は暮らしそのものだった。アダム・スミスの『国富論』以来の自由な貿易を説く経済学も、反対派の理論の支えになった。

1838年、マンチェスターで反対の運動が組織され、翌年、全国組織の反穀物法同盟になった。中心にいたのは、綿布の捺染業者リチャード・コブデンと、クエーカー教徒の綿紡績業者ジョン・ブライトである。二人は全国を回って演説し、同盟は大量のパンフレットを配り、集会を開き、選挙に候補を立てた。開通したばかりの鉄道と、1840年に始まった安い郵便制度が、運動を全国に広げた。自由な貿易は国と国を結びつけ、平和をもたらす、というのがコブデンの信念だった。彼はのちの1860年、フランスとの間で関税を引き下げる通商条約をまとめ、その信念を外交でも実らせることになる。
首相のロバート・ピールは、地主の党である保守党の指導者だった。1841年の選挙では、穀物法を守る党として勝っている。だがロバート・ピールは実務に通じた政治家で、経済学の議論にも耳を傾け、関税を少しずつ引き下げていた。所得税を復活させて財源を確保し、多くの品物の関税を下げるか廃止した。心の中では、穀物法もいずれ廃止すべきだと考えるようになっていたとされる。
1845年の秋、アイルランドでジャガイモが畑で腐り始めた。疫病だった。人口の多くがジャガイモだけを食べて暮らしていたアイルランドで、アイルランドのジャガイモ飢饉が始まった。ピールは、穀物の輸入を自由にしなければならないと決意した。12月、閣内の反対で一度辞任したが、野党ホイッグのラッセルが組閣に失敗し、首相に戻った。
1846年1月、ピールは下院に穀物法の廃止を提案した。3年かけて関税を下げ、最後はほぼ無くすという案である。保守党の議員の多くは、党首の裏切りだと激しく怒った。若い議員ベンジャミン・ディズレーリは、議場で毎晩のように皮肉に満ちた演説でピールを攻撃し、名を上げた。採決では、保守党の議員の3分の2ほどが反対に回った。法案は、野党のホイッグと急進派の票に助けられて、5月に下院を通った。
上院では、ワーテルローの英雄で、穀物法には内心反対ではなかったウェリントン公が、地主の議員たちに、国の秩序のために法案を通すよう説いた。1846年6月25日、上院は法案を可決した。その同じ夜、下院では、保守党の反ピール派が野党と組んで、ピール政権のアイルランドの治安法案を否決した。4日後、ピールは辞任した。

ピールは辞任の演説で、パンの値段が下がり、働く人々が額に汗して得た糧を安く手に入れられるようになるなら、自分の名は好意をもって思い出されるだろう、という趣旨を述べた。彼は1850年、ロンドンで落馬して死んだ。その葬儀では、多くの労働者が喪に服したと伝えられる。
保守党は割れた。グラッドストンやアバディーンらピールに従った人々は、のちにホイッグや急進派と合流して、自由党を作ることになる。保守党はその後長く、単独で下院の過半数を取れず、それが叶ったのは1874年、皮肉にもディズレーリのもとでだった。
穀物法の廃止は、イギリスが自由貿易の国へ進む転換点になった。1849年には、外国船による輸送を制限していた航海法も廃止された。イギリスは安い食料と原料を輸入し、工業製品を世界に売る国になり、1850年代から1870年代にかけて、ヴィクトリア時代の繁栄を迎える。その繁栄を世界に示したのが、1851年のロンドン万国博覧会だった。

ただし、廃止はアイルランドの飢饉を救いはしなかった。安い穀物を買うお金を持たない人々には、輸入の自由は役に立たず、飢饉はその後も数年続いた。そして1870年代になると、蒸気船と鉄道で運ばれるアメリカの安い小麦が大量に入ってきて、イギリスの農業は長い不況に沈んだ。それでもイギリスは、国の食料を外国に頼ることを選び続けた。その選択が試されたのが、20世紀の二つの大戦で、潜水艦が補給の航路を狙ったときだった。