チベット動乱

概要
ラサで蜂起が起き、鎮圧された。23歳の指導者はヒマラヤを越えてインドへ逃れ、以後亡命政府を率いる。8万人以上が続いた。
場所
29.65°N 91.17°E · 中国・チベット自治区
関わった人(1)
ダライ・ラマ14世AD1935年7月6日–? · 亡命本文
1949年に中華人民共和国の成立が宣言されると、新しい政府はチベットを中国の一部として「解放」すると表明した。1950年10月、人民解放軍はチベット東部のチャムドでチベット軍を破った。翌1951年5月、北京に送られたチベットの代表団は、中央政府の主権を認める代わりに、チベットの政治の仕組みとダライ・ラマの地位を変えないとする十七か条協定に署名した。代表団には署名の全権が与えられていなかったと、チベット側はのちに主張している。秋には解放軍がラサに入った。
ダライ・ラマ14世は1935年、チベット東北部アムドの農家に生まれ、幼くして先代の生まれ変わりと認められた。15歳で政治の実権を受け取ったのは、解放軍が東から迫っていた1950年のことである。協定の後の数年、ダライ・ラマは北京を訪ねて毛沢東と会い、新しい体制の中でチベットの宗教と自治を守る道を探った。

協定が「チベット」として扱ったのは、ラサの政府が治めていた中央と西の地域だった。チベット人が住む東部のカムとアムドは、四川省や青海省などに組み込まれていた。そこでは1950年代半ばから、土地改革と集団化、寺院の財産の取り上げが進められた。遊牧民と僧院が激しく抵抗し、各地で武装蜂起が起き、解放軍は空からの爆撃も含めて鎮圧にかかった。故郷を追われた人々がラサへ流れ込み、町の緊張は高まった。抵抗勢力には、アメリカの中央情報局がひそかに訓練と武器を与えていた。
1959年3月、ダライ・ラマは解放軍の司令部で催される観劇に招かれた。日にちは3月10日で、いつもの護衛を連れずに来るよう求められたと伝えられる。ダライ・ラマが連れ去られるという噂がラサに広まり、3月10日の朝、数万の人々が離宮ノルブリンカを取り囲んだ。中に入れないためではなく、外へ出さないために集まったのである。人々は中国の支配に反対する声を上げ、群衆の一部は中国側に協力していると見なしたチベット人の役人を殺した。

ノルブリンカを囲む群衆と、町に陣を構える解放軍がにらみ合ったまま、1週間が過ぎた。3月17日、離宮の近くに砲弾が落ちた。その夜、ダライ・ラマは兵士の服に身を包み、眼鏡を外して、ひそかに離宮を抜け出した。家族と側近を連れ、キチュ川を渡って南へ向かった。3月20日の未明、解放軍はノルブリンカとポタラ宮、町の各所への砲撃を始め、数日のうちにラサを制圧した。
ダライ・ラマの一行は、馬と徒歩でヒマラヤの峠を越え、3月31日にインドの国境に着いた。ラサを出てから2週間ほどの旅だった。インドの首相ネルーは亡命を受け入れた。その年のうちに8万人ほどのチベット人がインド、ネパール、ブータンへ逃れた。1960年、ダライ・ラマはインド北部の山あいの町ダラムサラに移り、そこに亡命政府が置かれた。

ラサの蜂起とその後の鎮圧でどれほどの人が死んだかは、立場によって大きく違う。チベット亡命政府は数万人が殺されたとし、中国政府は、封建的な支配層が起こした反乱を鎮め、農奴を解放したと位置づけている。蜂起の後、チベットでは「民主改革」として土地の分配と寺院の解体が一気に進められた。1962年には、チベットに残った宗教指導者のパンチェン・ラマが、飢えと弾圧の実情を訴える長い意見書を毛沢東に送り、のちに長く投獄された。同じ年、亡命の受け入れなどで関係が冷えた中国とインドが、ヒマラヤの国境で戦っている(中印戦争)。
1965年にはチベット自治区が置かれた。翌年からの文化大革命では、残っていた多くの寺院が壊された。チベット高原は、7世紀に吐蕃の高原統一で一つの王国にまとまって以来、独自の王と宗教の指導者のもとで歩んできた(吐蕃)。その歴史をどう解釈し、中国との関係をどう位置づけるかが、いまも争点になっている。

ダライ・ラマは亡命先から、独立ではなく中国の中での高度な自治を求める「中道」の立場を掲げ、1989年にノーベル平和賞を受けた。2011年には政治の権限を選挙で選ばれた亡命政府の首相に譲った。3月10日は、亡命チベット人の間で蜂起の記念日として毎年記念されている。