人物

エレノア・オブ・アキテーヌ

Eleanor of Aquitaine
AD1122年頃 – AD1204年4月1日(享年82・推定)
アキテーヌ公領重要度 3

概要

フランス王妃からイングランド王妃になり、十字軍にも同行した。自身の広大な所領を最後まで手放さなかった。

関わったできごと(1)

トルバドゥールの歌AD1100年頃 · 運んだ

本文

エレノア(フランス語ではアリエノール)は1122年ごろ、フランス南西部のアキテーヌ公ギヨーム10世の長女として生まれた。生年は1124年とする説もある。アキテーヌ公領はポワトゥーからピレネー山脈のふもとまで広がり、当時のフランス王が直接治める土地よりはるかに広く、豊かだった。祖父のギヨーム9世は、記録に残る最初の吟遊詩人として知られ(トルバドゥールの歌)、その宮廷は南フランスの恋愛詩と音楽の中心だった。エレノアは、ラテン語の読み書きを学び、狩りや乗馬もこなす、才気ある娘に育った。

ルイ7世との結婚(左)、十字軍遠征(右)
ルイ7世との結婚(左)、十字軍遠征(右)Wikimedia Commons Collectif - Grandes Chroniques de France · Public domain

1137年、父がスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の途中で死に、男子のいない公領はエレノアが継いだ。まだ十代半ばだった。父は死の前に娘をフランス王の後見に託しており、その年の7月、エレノアはフランス王太子ルイと結婚した。数日後に王が死に、夫はルイ7世として即位する。エレノアは十代でフランス王妃となった。

信心深く穏やかな夫と、華やかな南の宮廷で育った妻とは、性格が合わなかったといわれる。1147年、ルイ7世が第2回十字軍に出ると、エレノアも自ら同行した。アキテーヌの家臣たちを率いる領主としての参加でもあった。遠征はうまくいかなかった。小アジアでは軍が大きな損害を受け、シリアのアンティオキアでは、領主で叔父のレーモンとエレノアの親密さがうわさになった。ルイは妻を連れて無理にエルサレムへ向かい、夫婦の溝は決定的になった。

ロザモンドに自殺を迫る王妃(イーヴリン・ド・モーガン画、1905年)
ロザモンドに自殺を迫る王妃(イーヴリン・ド・モーガン画、1905年)Wikimedia Commons Evelyn De Morgan · Public domain

二人のあいだには娘が二人生まれたが、王位を継ぐ男子はいなかった。1152年3月、二人の結婚は、近い血縁を理由に無効とされた。その2か月後、エレノアはアンジュー伯でノルマンディー公のアンリと再婚する。アンリは11歳年下だった。2年後の1154年、アンリはイングランド王ヘンリー2世として即位した。エレノアは今度はイングランドの王妃となり、アキテーヌの領地は彼女のものであり続けた。フランス王から見れば、王国の西半分が、相続地ごと敵方へ移ったことになる。イングランド王がフランスの中に大きな領地を持つ、この形が、のちの英仏の長い争いの遠い原因の一つになる(百年戦争)。

ヘンリ2世とのあいだには、5人の男子と3人の女子が生まれた。エレノアは夫に代わってイングランドやアキテーヌを治めることも多かった。夫婦の仲は次第に冷えた。1170年代にはポワティエの宮廷で暮らし、詩人たちを集めた。後世、ここで恋の作法を裁く「愛の法廷」が開かれたと語られたが、それは後の書物の脚色とされている。

1173年、息子たちが父ヘンリ2世に反旗をひるがえした。父が王の名だけを与えて実権を渡さないことに不満を持ったのである。エレノアは息子たちの側に立った。男の服を着てフランスへ逃れようとしたところを捕らえられたと伝えられる。反乱は鎮められ、エレノアは以後16年近く、夫の監視下に置かれた。反乱の3年前には、夫の言葉を受けた騎士たちがカンタベリー大司教トマス・ベケットを殺す事件(トマス・ベケットの殺害)が起き、ヘンリ2世は教皇との和解に追われていた。

トマス・ベケットの殺害に関わる図版:London. British Library, Cotton MS Claudius B II. f.341r (cropped)
トマス・ベケットの殺害Wikimedia Commons Unknown Miniaturist, English (active 1170s in Cirenchester) · Public domain

1189年、ヘンリ2世が死ぬと、王位を継いだ息子のリチャード1世(獅子心王)がまず命じたのは、母の解放だった。60代後半のエレノアは、息子が第3回十字軍に出ているあいだ、イングランドを守った。1191年には、リチャードの花嫁となるナバラ王の娘を連れて、アルプスを越えてシチリアまで届けている。帰途、リチャードがオーストリア公に捕らえられ、神聖ローマ皇帝に引き渡されると、エレノアは国じゅうから莫大な身代金を集め、自らドイツまで運んで息子を取り戻した。

1199年、リチャードが戦傷で死ぬと、末の息子ジョンを王位に押し立てた。翌1200年、80歳に近い身でピレネー山脈を越えてカスティーリャへ行き、娘の子の中から、フランス王太子の妃にふさわしい孫娘を選んで連れ帰った。この孫娘ブランシュはのちにフランスの王妃となり、聖王ルイ9世の母になる。1202年には、ジョンと王位を争う孫のアルテュールに城を囲まれ、ジョンの救援で助かるという出来事まであった。

リチャードとジョンを和解させた王太后(19世紀画)
リチャードとジョンを和解させた王太后(19世紀画)Wikimedia Commons James William Edmund Doyle / Edmund Evans · Public domain

1204年4月1日、エレノアはロワール川の近くのフォントヴロー修道院で死んだ。80歳前後だった。同じ年、ジョンはノルマンディーをフランス王に奪われ、やがて貴族たちにマグナ・カルタを突きつけられる。フォントヴローには、夫ヘンリ2世と息子リチャードと並んで、本を手に横たわるエレノアの像がいまも残っている。二つの国の王妃となり、二人の王の母となった女性は、最後まで自分の領地の主であり続けた。

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