ソ連の解体
概要
12月8日、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの首脳がベロヴェーシの森で「ソ連は存在しない」。21日、アルマアタで11か国がCIS。25日、ゴルバチョフが辞任の演説をし、クレムリンの赤い旗が降りて三色旗が上がった。69年。核のボタンはエリツィンに渡った。
場所
55.76°N 37.62°E · ロシア
関わった人(2)
ゴルバチョフAD1931年3月2日–AD2022年8月30日 · 辞任ボリス・エリツィンAD1931年2月1日–AD2007年4月23日 · ロシア大統領本文
1991年12月25日の夜7時、ソ連の大統領ゴルバチョフはテレビカメラの前に座り、ソ連大統領としての職務をやめると国民に告げた。演説は10分ほどだった。それから30分あまり後、モスクワのクレムリンの屋根から、鎌と槌を描いた赤い旗が降ろされ、代わりにロシアの白・青・赤の三色旗が掲げられた。1922年に生まれたソビエト社会主義共和国連邦は、69年で幕を閉じた。
ソ連の終わりは、その7年前に始まった改革から転がり出した。1985年に共産党の書記長になったゴルバチョフは、停滞した経済と硬直した体制を立て直そうと、改革(ペレストロイカ)と情報公開(グラスノスチ)を掲げた(ペレストロイカとグラスノスチ)。1986年のチェルノブイリ原発事故は、隠しごとをする体制の危うさを国じゅうに突きつけた。言論の自由が広がるにつれ、過去の弾圧や、ソ連に組み込まれた民族の不満が次々に語られるようになった。1989年には東ヨーロッパで共産党の政権が相次いで倒れ、ベルリンの壁の崩壊を迎えた。ゴルバチョフはそれを武力で止めなかった。

ソ連の内側でも、15の共和国がそれぞれ自分の道を求め始めた。とくに強く独立を求めたのは、1940年にソ連に併合されたエストニア、ラトヴィア、リトアニアのバルト三国だった。1989年8月には、三国の首都を結んで200万人ほどが手をつなぐバルトの道が行われた。1990年にはロシア共和国自身も主権を宣言し、1991年6月、ロシアで初めての直接選挙でボリス・エリツィンが大統領に選ばれた。連邦の大統領ゴルバチョフと、最大の共和国の大統領エリツィンが、モスクワで並び立つことになった。
ゴルバチョフは、共和国に大幅な自治を認める新しい連邦の条約を結んで、国を作り直そうとした。その調印の前日の1991年8月19日、共産党の保守派が、休暇中のゴルバチョフをクリミアの別荘に閉じ込め、権力を握ろうとした(8月クーデター)。だがモスクワの市民は街に出て、エリツィンはロシア政府の建物の前で戦車の上に立ち、クーデターに抵抗するよう呼びかけた。軍の多くは市民に銃を向けず、クーデターは3日で崩れた。

モスクワに戻ったゴルバチョフに、もう以前の力はなかった。事態を救ったのはエリツィンであり、エリツィンはロシア共和国の中で共産党の活動を止め、連邦の役所を次々にロシアの管理下に置いていった。9月にはソ連自身がバルト三国の独立を認めた。ゴルバチョフはなおも新しい連邦の条約を結ぼうとしたが、各共和国の指導者たちはもう話に乗らなかった。決定的だったのは、12月1日のウクライナの国民投票である。独立への賛成は90%を超えた。人口5000万を抱え、ロシアと並ぶ柱だったウクライナが抜ければ、どんな形の連邦も成り立たない。
12月7日、ロシアのエリツィン、ウクライナのクラフチュク、ベラルーシのシュシケヴィチの3人が、ポーランドとの国境に近いベラルーシのベロヴェーシの森にある政府の狩猟用の別荘に集まった。翌8日、3人は協定に署名した。ソ連を作った1922年の条約を結んだ共和国として、国際法の主体であり地政学的な現実であるソ連は存在を停止すると宣言し、代わりに「独立国家共同体(CIS)」を作るという内容だった。ゴルバチョフはこの集まりのことを知らされていなかった。のちの証言によれば、協定の署名の後、エリツィンがまずアメリカのブッシュ大統領に電話をかけ、ゴルバチョフに知らせたのはその後だった。ゴルバチョフは激しく怒ったが、もはや止める手立てを持たなかった。

12月21日、カザフスタンの首都アルマアタに、バルト三国とジョージアを除く11の共和国の首脳が集まり、独立国家共同体への参加を確かめた。ソ連という国は、構成するほとんどの共和国から見捨てられた。ゴルバチョフに残された仕事は、去ることだけだった。
12月25日の演説で、ゴルバチョフは、自分が始めた改革によって国民が自由を手にしたことを誇り、同時に、国が分かれてしまったことへの懸念を語った。演説が終わると、核兵器の発射を命じるための装置を収めた「核のスーツケース」が、国防相のシャポシニコフ元帥の手を経て、エリツィンに引き渡された。巨大な核の力を誰が握るのかは、世界が最も気にかけていたことだった。その夜、クレムリンの旗が掛け替えられた。西側の多くの国ではクリスマスの夜だったが、ロシア正教のクリスマスは1月7日で、モスクワの街はいつもの冬の夜と変わらなかった。翌26日、ソ連の最高会議の一院が集まり、ソ連が存在しなくなったことを正式に宣言した。

一つの国が、大きな内戦も外からの戦争もないまま、15の国に分かれた。人口2億9000万人ほどの超大国の消滅だった。ソ連の核兵器は、ロシアのほか、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンの領土にも残された。アメリカとロシアの働きかけで、3か国は核兵器をロシアに移すことに同意し、ウクライナは1994年、アメリカ、イギリス、ロシアが自国の領土の保全と安全を約束する覚書と引き換えに核を手放した。この約束が守られなかったことは、のちのクリミアの編入とロシアのウクライナ侵攻で明らかになる。
ソ連の解体は、物語「冷戦」の終わりを決定づけ、世界は唯一の超大国アメリカを中心とする時代へ入った(物語「冷戦のあと」)。だが新しく生まれた国々の多くは、苦しい道を歩んだ。ロシアでは急激な市場経済への移行で物価が跳ね上がり、多くの人びとが蓄えを失い、平均寿命まで縮んだ。ソ連の時代に引かれた共和国の境界は、そのまま国境になり、各地にその内側に取り残された少数民族の問題を残した。

ゴルバチョフ自身は、1996年のロシアの大統領選挙に立候補したが、得票は1%にも届かなかった。ロシアでは国を壊した指導者として冷たく見られ、西側では冷戦を終わらせた政治家としてたたえられた。2005年、ロシアのプーチン大統領は、ソ連の崩壊を20世紀最大の地政学的な破局と呼んだ。ゴルバチョフが2022年8月に91歳で死んだとき、プーチンは葬儀に姿を見せなかった。バルト三国や多くの元の共和国にとって、1991年は占領や支配からの解放の年である。同じ12月25日が、ある国では破局として、ある国では解放として記憶されている。