ローマのケンスス
概要
5年ごとに、市民全員が名と年齢と財産を申告した。監督するのは監察官(ケンソル)。ここで決まるのは、どの階級に属し、どの部隊で戦い、どの投票区で何票を持つかである。数えることは、税と兵役と政治的な権利を同時に割り当てる行為だった。申告を怠れば、財産を没収され、奴隷に落とされることもあった。ケンソルは風紀も監督し、名簿から元老院議員を除くことができた。censor(検閲)の語はここから来る。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
ケンススという言葉は、ラテン語の「見積もる、評価する」という動詞から来ている。ローマの伝承では、王政期の第6代の王セルウィウス・トゥッリウスが市民を財産によって分け、数えることを始めたとされる。共和政に入ると、およそ5年ごとに行う制度として定着し、紀元前443年ごろには、その仕事を受け持つ専任の役職として監察官(ケンソル)が置かれた。王の話は伝説の色が濃いが、市民を数えて財産で分けることが、ローマという国の骨組みの最初からあったことは確かである。
手続きは厳かなものだった。市民はローマの城壁の外、マルスの野に集められ(のちには地方の市民はそれぞれの町で登録した)、一人ずつ監察官の前に出て、誓いを立ててから申告する。名前と父の名、年齢、属する部族(トリブス)、妻と子の名、そして財産である。土地、家、奴隷、家畜、馬車、宝飾品、現金まで、すべてを申告した。偽りの申告や申告を怠ることは重い罪で、財産を取り上げられ、奴隷として売られることもあった。

なぜ、そこまでして数えたのか。数えた結果で、三つのことが同時に決まったからである。一つめは税で、戦時に課される税は財産に応じて負担した。二つめは兵役である。ローマの市民兵は自分の装備を自分で買って戦場へ行く。だから財産が武装を決めた。最も豊かな第1階級は兜と鎧と盾と剣と槍をそろえ、下の階級ほど装備が軽くなり、第5階級は投石具だけで戦った。財産が最低の線に届かない者はプロレタリイと呼ばれた。彼らが国に差し出せるのは子ども(プロレス)だけだ、というのがその名の由来である。
三つめが投票の重みである。共和政ローマの主要な民会の一つ、ケントゥリア民会は一人一票ではなく、百人隊(ケントゥリア)ごとに一票を投じた。そして百人隊の数は階級によって大きく違った。騎士と第1階級だけで98、第2から第5階級までで合わせて95ほど、プロレタリイは全員まとめて1つである。総数193のうち過半数は97だから、上の階級がそろえば、それだけで決着がつく。投票は上の階級から順に行われ、過半数に達した時点で打ち切られたので、下の階級まで順番が回らないことが多かった。数えることは、そのまま政治の重みを配ることだった。

監察官は二人で、任期は原則として18か月である。執政官を務めた者から選ばれることが多く、名誉の頂点とされた。その権限は広い。市民の名簿を作るだけでなく、元老院議員の名簿も作り直し、ふさわしくないと見た議員を名簿から外すことができた。公共事業の請負の契約も結んだ。紀元前312年に監察官アッピウス・クラウディウスが造らせた道が、アッピア街道である。
特異なのは、市民の暮らしぶりまで審査したことである。畑の手入れを怠った者、妻を不当に扱った者、宴会に金をかけすぎる者、務めを怠けた者が咎められた。罰は、名簿の名の横に理由を添えて付ける印である。これで元老院議員は議席を失い、騎士は国から与えられた馬を取り上げられ、市民は格下の部族へ移された。紀元前184年に監察官となった大カトーは特に厳しく、プルタルコスによれば、白昼に娘の見ている前で妻を抱擁した元老院議員を名簿から除いた。英語で検閲を意味する言葉は、この監察官の名から来ている。
ケンススの数は記録に残った。紀元前234年には成年男子の市民がおよそ27万人と数えられた。第二次ポエニ戦争のさなかの紀元前209年には13万7108人で、カンナエの戦いをはじめとする大敗の傷あとが数字に表れている。紀元前70年には91万人に達した。同盟市戦争のあと、イタリアの同盟市の住民に市民権が広げられたためである。

アウグストゥスは自らケンススを3度行い、晩年の業績録にその数を誇らしげに書き残した。紀元前28年の406万3000人から、紀元14年の493万7000人まで。前の世代の4倍を超える急増は、市民権がさらに広がったことに加えて、数える対象が成年男子から女性や子どもを含む市民全体に変わった可能性があるためで、解釈は分かれている。属州でも、税を取るための住民の登録が行われた。新約聖書のルカによる福音書は、皇帝の命令で全領土の住民が登録をすることになり、ヨセフとマリアがベツレヘムへ向かったと書く。ただ、そこに名の出るシリア総督キリニウスの登録は紀元6年のことで、イエスの誕生の年代とは合わず、歴史学の上では整合しないとされている。
3世紀の混乱のなかで、5年ごとのケンススは行われなくなった。近代の国勢調査は、ローマから直接つながっているわけではない。それでも、征服したばかりの土地を調べ上げたイングランドのドゥームズデイ・ブック、田畑と耕す者を一筆ごとに押さえた日本の太閤検地、下院の議席を配るために10年ごとの調査を憲法に書き込んだアメリカの最初の国勢調査と、国が人や土地を数える場面は形を変えて現れ続けた。国が人を数えるのは、そこから何かを取るため、あるいは何かを配るためである。その原理は、マルスの野に並んだ市民の時代から変わっていない。