できごと

イタリア統一

Unification of Italy
AD1861年
重要度 4
イタリア統一に関わる図版:Episodio delle cinque giornate (Baldassare Verazzi)
Episodio delle cinque giornate (Baldassare Verazzi) Wikimedia Commons Baldassare Verazzi (1819-1886) · Public domain

概要

ローマ帝国の崩壊から1400年ぶりに半島が一つの国になった。ドイツ統一とほぼ同時期。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(2)

カヴールAD1810年8月10日–AD1861年6月6日 · 首相ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世AD1820年3月14日–AD1878年1月9日 · 王

本文

1861年3月17日、トリノに集まった議会が、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世をイタリア王とする法を定めた。西ローマ帝国が滅んでからおよそ1400年、イタリア半島の大部分が、一人の王のもとに初めてまとまった。

それまでの半島は、いくつもの国に分かれていた。ナポレオンの没落後、1815年のウィーン会議で決まった体制のもとで、北東のロンバルディアとヴェネツィアはオーストリアの領土となり、中部にはオーストリアの影響下にある公国と、ローマ教皇が治める教皇領があった。南はブルボン家の両シチリア王国、北西にはサヴォイア家のサルデーニャ王国である。イタリアは、メッテルニヒの言葉によれば「地理上の名前」にすぎなかった。

一つの国にしようとする運動は、秘密結社のカルボナリから始まり、1831年にマッツィーニが「青年イタリア」を結成して広がった。マッツィーニは、民衆が立ち上がって共和国を作ることを目指した。1848年には各地で革命が起こり(1848年革命)、サルデーニャ王がオーストリアに戦いを挑み、ローマでは教皇が逃げ出して共和国が宣言された。だがサルデーニャは敗れ、ローマの共和国はフランス軍に倒された。民衆の蜂起だけでは、オーストリアの軍に勝てないことがはっきりした。

1848年革命に関わる図版:Horace Vernet-Barricade rue Soufflot
1848年革命Wikimedia Commons Horace Vernet · Public domain

その後の統一を進めたのは、三つの流れだった。一つ目は、1852年にサルデーニャの首相となったカヴールの外交である。カヴールは鉄道を敷き、産業を育て、国の力を蓄えた。1855年には、直接の利害の無いクリミア戦争(クリミア戦争)に兵を送り、講和会議で列強にイタリアの問題を訴える席を得た。1858年、フランスのナポレオン3世と密約を結び、オーストリアと戦うときにはフランスが味方し、その見返りにサヴォイアとニースをフランスに譲ると約束した。

1859年、サルデーニャとフランスの連合軍はオーストリアと戦い、マジェンタとソルフェリーノで勝った。ソルフェリーノの戦場の惨状を見たスイスの実業家デュナンは、のちに赤十字を作る(『ソルフェリーノの思い出』)。ところがナポレオン3世は、戦争の広がりを恐れてオーストリアと単独で講和し、サルデーニャはロンバルディアだけを得た。怒ったカヴールは一時首相を辞めている。だが翌1860年、中部の公国や教皇領の北部で住民投票が行われ、サルデーニャへの合併が決まった。約束どおりサヴォイアとニースはフランスに渡った。

二つ目の流れが、ジュゼッペ・ガリバルディの義勇兵である。ニース生まれのガリバルディは、故郷がフランスに渡されたことに怒っていた。1860年5月、彼はおよそ1000人の義勇兵を率いてジェノヴァの近くから船出し、シチリアに上陸した(ガリバルディの千人隊)。赤いシャツを着た義勇兵は、島の農民の反乱と結びついてシチリアを制圧し、海峡を渡って9月にはナポリに入った。両シチリア王国は崩れた。

ガリバルディの千人隊に関わる図版:Partenza da Quarto
ガリバルディの千人隊Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

カヴールは、ガリバルディがそのままローマへ攻め上ることを恐れた。ローマにはフランスの軍が教皇を守って駐留しており、手を出せばフランスとの戦争になる。そこでサルデーニャの軍は教皇領の東部を通って南へ下り、ガリバルディの前に出た。10月、ガリバルディはテアーノの近くで王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世を迎え、征服した南部を王に引き渡した。共和主義者だったガリバルディが、王に国を差し出したのである。自らは褒賞を断り、サルデーニャ島の北の小島カプレーラへ帰った。

三つ目の流れは、マッツィーニらが広めた思想である。イタリアは一つの民族であり、一つの国であるべきだという考えが、義勇兵を集め、住民投票を支えた。ただしマッツィーニ自身が望んだ共和国は実現せず、彼は統一後も亡命の身のまま晩年を送った。

1861年の王国の成立では、まだ統一は終わっていなかった。カヴールはその年の6月に50歳で急死した。ヴェネツィアは1866年、プロイセンとオーストリアの戦争に乗じて手に入れた。ローマは1870年、プロイセンとの戦い(スダン(セダン)の戦い)のためにフランスが軍を引き揚げた隙に占領され、翌年から首都となった。教皇はこれを認めず、ヴァチカンに閉じこもった。教皇庁とイタリア国家が和解するのは1929年である。ドイツの統一(ドイツ帝国の成立)も、ほぼ同じ時期に、同じ戦争を通して完成している。

スダン(セダン)の戦いに関わる図版:Nap sedan von Wilhelm Camphausen
スダン(セダン)の戦いWikimedia Commons Wilhelm Camphausen · Public domain

統一の後には、大きな問題が残った。北と南の経済の差は大きく、南部では新しい国の徴兵と税に反発する反乱が何年も続いた。言葉の差も大きかった。統一のときに標準のイタリア語をふだん話していた人は、全人口のわずか数パーセントだったと推計されている。「イタリアはできた。次はイタリア人を作らねばならない」という言葉は、統一の時代の政治家ダゼーリオのものとして知られるが、実際にこの通りに言ったかどうかは確かめられていない。19世紀の末からは、貧しい南部から南北アメリカへ、何百万もの人が移民として渡っていった。

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