アミルカル・カブラル
概要
農学者から独立運動の指導者になった。解放区で学校と診療所を先に作る方法を取る。独立の8か月前に暗殺される。
関わったできごと(1)
ポルトガル領の独立AD1975年 · ギニアビサウとカーボヴェルデの指導者。1973年1月に暗殺された本文
1924年9月12日、ポルトガル領ギニア(いまのギニアビサウ)のバファタで生まれた。両親は大西洋の島々、カーボベルデの出身で、幼いころに一家でカーボベルデへ移っている。カーボベルデでは干ばつのたびに飢饉が起き、彼が少年だった1940年代にも数万人が死んだ。のちに農学を選んだ理由として、彼自身がこの飢えの記憶を挙げている。

奨学金を得て、1945年からリスボンの農学の高等学校で学んだ。リスボンには、ポルトガルの植民地から来た学生たちが集まっていた。のちにアンゴラの独立運動を率いるアゴスティーニョ・ネトや、モザンビークの運動に加わる人々と知り合い、アフリカの言葉と文化を学び直す会を作っている。植民地の学生が本国で出会い、同じ敵を見つける。20世紀のアフリカの独立運動で、何度も繰り返された形になる。
1952年、農業技師としてポルトガル領ギニアに戻った。そこで、植民地政府の農業調査を任される。全土を歩き、村ごとの土地の使い方、作物、家族の形、民族ごとの人間関係を記録した。仕事として、国の隅々までを知ることになる。この知識が、のちに独立の組織をどこから作るか、誰に頼るかを決めるときに使われた。

1956年、仲間とともにギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を作ったとされる(創立の年については、のちの党の公式の年だとして異論もある)。1959年8月、ビサウの港で賃上げを求めてストライキをした港湾労働者たちに、植民地の警察が発砲し、数十人が死んだ。平和的な抗議では何も変わらない。党はこの事件のあと、武装闘争へ向かうことを決める。担い手は、都市の労働者よりも、農村の人々になった。
1963年、戦争が始まった。拠点は隣国ギニアの首都コナクリに置いた。カブラルのやり方で特徴的だったのは、ポルトガル軍を追い出した地域(解放区)で、まず学校と診療所を作ったことだ。人民の店を開き、村の裁判を村人に任せた。銃で地域を取るだけでなく、そこでの暮らしが植民地のもとより良くなることを見せなければ、人々はついてこない。1972年には国連の調査団が解放区を訪れ、そこでの統治を確かめている。

自分たちの側にも厳しかった。党の指示書に「人々に嘘をつくな。安易な勝利を主張するな」という一句がある。理論家としても知られ、1966年にハバナで開かれた三大陸人民連帯会議では「理論という武器」を演説した。植民地のもとで教育を受けた中間層は、独立のあと自分たちが新しい支配者になる誘惑を持つ。だから彼らは「階級として自殺」し、人々の側に生まれ変わらなければならない、と論じた。文化は外から来た支配に抗う力の源でもある、とも書いている。同じ時代のフランツ・ファノンと並べて読まれることが多い。
1973年1月20日、コナクリで、党の内部の人間に撃たれて死んだ。48歳。実行したのは党の海軍部門の幹部らで、ポルトガルの秘密警察がこれを後押ししていたとする見方が強いが、その関わりの深さについてはいまも議論がある。ギニアとカーボベルデの出身者のあいだの不信も利用されたとされる。
8か月後の1973年9月24日、PAIGCは独立を宣言した。多くの国がすぐに承認した。そして1974年4月、植民地での終わらない戦争に疲れたポルトガルの軍の中から革命が起き、独裁政権が倒れる。新しいポルトガルはその年のうちにギニアビサウの独立を認め、翌年にはカーボベルデ、モザンビーク、アンゴラが続いた(ポルトガル帝国)。異母弟のルイス・カブラルが、ギニアビサウの最初の大統領になった。
ガーナの独立から始まりアフリカの年で一気に進んだアフリカの独立のなかで、ポルトガルの植民地は最後まで残った。カブラルはその解放を見ずに死んだ。だが、独立後の多くの国で軍と党が人々の上に立っていったのを知る後の世代は、彼の「嘘をつくな」と「階級としての自殺」を、繰り返し引くことになる。