モントリオール議定書
概要
1974年、ローランドとモリーナが、フロンが成層圏で分解してオゾンを壊すと予測した。1985年、イギリスの観測隊が南極上空のオゾンの急減を報告した。予測を、はるかに超える速さだった。2年後、24か国が生産の削減に合意した。後の改定で全廃に至る。親条約のウィーン条約とともに、全ての国連加盟国が批准した最初の条約になった。オゾン層は回復に向かっている。代替品として使われた物質が、強力な温室効果ガスであることが、後に分かった。
場所
45.50°N -73.57°E · カナダ・ケベック州
本文
地上から10キロから50キロほど上の成層圏には、オゾンの濃い層がある。オゾンは酸素の原子が三つつながった気体で、太陽から届く有害な紫外線を吸い込む。この層がなければ、地上の生き物は強い紫外線にさらされ、皮膚癌や白内障が増え、植物や海のプランクトンの光合成も妨げられる。生態系の土台が揺らぐのである。この見えない盾を、人間は気づかないうちに壊し始めていた。
原因となったのは、フロンと呼ばれる物質だった。1928年、アメリカのゼネラルモーターズの研究者トマス・ミジリーらが、冷蔵庫の冷媒として開発した。当時の冷媒はアンモニアや二酸化硫黄、塩化メチルなど毒性の強いものが多く、漏れて人が死ぬ事故も起きていた。新しいフロンは毒がなく、燃えず、化学的に極めて安定で、しかも安かった。ミジリーは学会の場でフロンを吸い込み、その息でろうそくの火を吹き消してみせたという。完璧な物質に見えた。

フロンは冷蔵庫と冷房の冷媒、スプレーの噴射剤、断熱材や緩衝材を膨らませる発泡剤、電子部品の洗浄剤として、世界中で大量に使われた。ミジリーは、エンジンのノッキングを防ぐ有鉛ガソリンを開発した人物でもあり、20世紀の大気に最も大きな害を与えた一人と言われることがある。彼自身は晩年、病気で体が不自由になり、ベッドから起き上がるための滑車の装置を考案したが、1944年、その装置の綱に絡まって亡くなった。
1974年6月、カリフォルニア大学アーバインのシャーウッド・ローランドと、メキシコ出身の研究者マリオ・モリーナが、イギリスの科学誌『ネイチャー』に論文を発表した。その論理はこうである。フロンは極めて安定なので、地表に近い大気の中では壊れない。壊れないまま、何年もかけて成層圏まで昇っていく。そこには強い紫外線があり、紫外線がフロンを分解して塩素の原子を解き放つ。塩素の原子はオゾンを壊す。しかも反応の後、塩素はもとに戻り、また次のオゾンを壊す。触媒として働くのである。一つの塩素原子が、10万個ものオゾン分子を壊しうる。フロンの安定さこそが、害の源だった。

産業界は猛烈に反発した。化学会社の幹部はこの説を空想の物語だと言ったと伝えられ、業界団体は大がかりな広報を展開した。ローランドはその後長いあいだ、産業界から講演に呼ばれなくなったと回想している。それでも世論は動いた。消費者がフロンを使わないスプレーを選ぶようになり、1978年にはアメリカ、カナダ、スウェーデン、ノルウェーがスプレーの噴射剤へのフロンの使用を禁じた。ただし冷媒や発泡剤への使用は続き、世界全体のフロンの生産は減らなかった。
1985年5月、南極から衝撃的な報告が届いた。イギリス南極観測局のジョセフ・ファーマン、ブライアン・ガーディナー、ジョナサン・シャンクリンが、『ネイチャー』に論文を出したのである。南極のハレー基地の上空では、1970年代の後半から、南極の春にあたる9月から10月にかけて、オゾンの量が大きく減っていた。減り方は、それまでの予測をはるかに超える速さと大きさだった。彼らは1957年から、同じ場所で、同じ古い型の測定器を使って、オゾンを測り続けていた。地味な長い定点観測がなければ、この変化には気づけなかった。

実はアメリカ航空宇宙局の衛星も、同じ時期のオゾンを測っていた。しかしデータの処理の仕組みが、極端に低い値を測定の誤りの疑いがあるものとして扱っていたため、変化は見過ごされていた。イギリスの報告を受けて記録を見直すと、衛星のデータにも、南極の上にぽっかりと開いた「穴」が写っていた。異常な値を機械的に捨ててはならない、という教訓として、この話は繰り返し語られている。
なぜ南極なのか。南極の冬、成層圏は零下80度近くまで冷え込み、氷の粒でできた雲が生まれる。その粒の表面で化学反応が進み、塩素がオゾンを壊しやすい形に変わってたまっていく。春になって太陽の光が戻ると、それが引き金になって、一気にオゾンが壊される。この仕組みは、1986年から翌年にかけて、アメリカの研究者スーザン・ソロモンらが南極で行った観測で確かめられた。
報告からわずか2年後の1987年9月16日、カナダのモントリオールで「オゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書」が採択され、24か国と当時のヨーロッパ共同体が署名した。主なフロンの生産を、10年あまりのうちに半分に減らすという内容だった。これだけでは不十分だったが、議定書には、科学の知見が進めば規制を強められる仕組みが組み込まれていた。
その仕組みが働いた。1990年のロンドンでの改正で、主なフロンを2000年までに全廃することが決まり、途上国が代わりの技術へ移る費用を先進国が支える多国間の基金が設けられた。1992年のコペンハーゲンでの改正で、先進国の全廃は1996年に前倒しされ、フロンの代わりに使われ始めた別の物質も規制の対象に加わった。その後も改正が重ねられた。
モントリオール議定書は、国連に加盟するすべての国が締約国になった、最初の条約となった。成果は数字に表れている。大気中のフロンの濃度は1990年代の半ばに頂点を越え、その後は減り続けている。2022年の国際的な科学評価は、オゾン層はゆっくり回復に向かっており、多くの地域で2040年ごろ、北極で2045年ごろ、南極で2066年ごろに1980年の水準へ戻ると見込んだ。アメリカの環境保護庁は、議定書がなければ、アメリカだけで数億件の皮膚癌と百万人を超える癌の死者が上乗せされたと推計している。
思わぬ副産物もあった。フロンは、強力な温室効果ガスでもある。同じ量で比べると、二酸化炭素の数千倍から1万倍もの温室効果を持つものがある。そのためフロンの全廃は、地球温暖化の対策としても大きな効果を持った。モントリオール議定書が減らした温室効果は、温暖化対策そのものを目的とした京都議定書を大きく上回ったという研究もある。

なぜこの条約はうまくいったのか。温暖化の交渉と比べて、よく論じられる。第一に、代わりの物質があった。大手の化学会社が代替品の開発に成功すると、規制を支持する側に回った。規制は、代替品を先に持つ企業に有利に働いた。第二に、相手が限られていた。フロンを作る企業は世界で数十社ほどで、化石燃料のように経済のすべてに行き渡っているわけではない。第三に、因果がはっきりしていた。一つの物質が一つの現象を起こし、皮膚癌という分かりやすい害につながる。第四に、目に見える「穴」があった。南極の上に空いた穴の衛星画像は、報道で繰り返し使われた。そして第五に、途上国のための資金の仕組みを作った。これがなければ、すべての国が加わることはなかっただろう。
問題が残らなかったわけではない。フロンの代わりに広く使われたハイドロフルオロカーボンは、オゾンは壊さないが、強力な温室効果ガスだった。2016年、ルワンダのキガリでの改正で、これも段階的に減らすことが決まった。一つの問題を解いた物質が別の問題を生む。ミジリーのフロンと同じ構図である。2018年には、大気の観測から、すでに全廃されたはずのフロンの一種の排出が予想より多いことが分かり、追跡の結果、中国東部で違法に作られ、断熱材の発泡剤に使われていたことが突き止められた。対策が取られて排出は再び減った。大気を測り続けていたからこそ、見つけられたのである。
1995年、ローランドとモリーナは、オゾンの研究を切り開いたオランダの大気化学者パウル・クルッツェンとともに、ノーベル化学賞を受けた。授賞の理由は、人間が出す物質に対して地球の環境がいかに脆いかを示したことにあった。クルッツェンはのちに、人間が地球の姿を変える時代を「人新世」と呼ぶことを提唱する。オゾン層の物語は、人間が地球の大気を壊しうること、そして、科学と国際的な合意によってそれを止めうることの、両方を示した。その後に続く温暖化の交渉(パリ協定)は、この成功をいまも手本としながら、同じようにはうまく進んでいない。